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月刊ガバナンス平成27年6月号
続アサノ・ネクストから 第57

民意が問われるべきとき

 関西電力高浜原発3・4号機の再稼働をめぐり、福井県や関西の住民9人が再稼働の差し止めを求めた仮処分申請で、福井地裁は4月14日、住民側の請求を認め、両機を運転してはならないと関西電力に命じた。理由は、「原子力規制委員会の新規制基準は緩やかすぎて、この基準に適合しても原発の安全性は確保できない」というものである。

 福井地裁の決定の適否、決定の理由の妥当性についての議論とは別に、原発再稼働を(一時的ではあるが)住民が止めたという事実の持つ意味は大きい。今回の仮処分決定がなければ、高浜原発は原子力規制委員会の規制基準に適合していることから、関西電力から高浜原発再稼働の申請があれば、福井県及び高浜町は承認することになるだろう。承認にあたって、住民の意見を聴くことは予定されていない。

 しかし、原発再稼働が問題になっているのに、それでいいのか。住民(の多数)が首長の判断とは異なり「再稼働差し止め」となる可能性はある。首長の判断基準は安全性だが、住民の場合は「安心感」も判断基準になり、そのハードルのほうが高いからである。

 安全と安心は別ものである。安全基準はあるが、安心基準というものはない。安全は科学でありシステムだが、安心は人間の心理であり精神の状態である。安全性は首長も住民も理解するが、機関である首長は安心感とは無縁である。

 原発の再稼働について、原発の安全性は確保されたが、住民の安心感は共有されないという事態はあり得る。だとすると、再稼働の承認は首長の判断だけでは不十分で、住民の判断も求められると考えるのが妥当である。

 民主主義の観点からいっても、原発再稼働といった住民の一大関心事については、何らかの形で民意を問うことは当然と思われる。それが欠けているから、司法の介入(?)といった超法規的措置(?)が代替機能を果たすことになったと言ったら言いすぎだろうか。

 地方自治の重要な場面では、自治体住民の総意が大事な役割を果たす。先日行われた、大阪都構想の是非を問う住民投票がいい例である。自治体の存在そのものが問われる案件であるので、住民が決定に関わるのは当然のことである。

 大阪都構想は、為政者には自治体運営の効率性の問題だとしても、住民にとっては自治体へのアイデンティティ(帰属意識)が主要な論点である。地方自治の本旨である住民自治の観点からいっても、ここで民意が問われるのは当然のことである。結果は大阪都構想に賛成は得られなかったが、投票に参加した大阪市民にとっては、「自分たちで決めた」という満足感は得られたのではないか。

 自治体における政策の決定に際しては、何でもかんでも「民意を問え」ということではない。地方自治体における二元代表制を持ち出すまでもなく、通常の政策判断は、選挙で住民から直接選ばれた首長と議会によってなされるべきである。しかし、住民の関わりがどうしても必要とされる局面では、住民投票も含めて、的確に民意を問う方策が必要である。「地方自治は民主主義の学校」という言葉の意義を改めて噛みしめたい。            


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