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河北新報2006.2.7.
疾走12年から 第1回

知事就任

古里思い怒りの決断

 思いもかけず、宮城県知事になって12年。あっという間という気もするが、12年はそれなりに長い。忘れる前に書き止めておかなければならないこともある。お勧めがあったのを幸いに、回顧録のようなものをこの時点で残しておくことは、意義のあることかもしれない。

気持ちの浮き沈み
  手元に1993年9月28日発行の「東中野・霞が関」間の3ヶ月定期券が残っている。前日に、宮城県知事が「ゼネコン汚職」で逮捕された。

 それから約1ヶ月、宮城県では、出直し知事選挙の候補者選びが一段落し、当時の副知事八木功氏が、多くの政党、団体の推薦を受けて擁立された。知事逮捕の3ヶ月前には、石井亨仙台市長も同じくゼネコン汚職で逮捕。「知事も市長も逮捕、そして、今度は副知事が候補者」。宮城、仙台の人たちは、持って行き場のない恥ずかしさ、やるせなさ、憤懣を抱えながらも、あきらめの境地にあった。

 そんな状況を横目で見ながら、私は厚生省生活衛生局企画課長の職を淡々とこなしていた。古里の大変な状況を知りながらも、私が出て行く場面でもあるまいという気持ちが強かった。「今、宮城県に戻ったって、20対0で負けている野球の9回裏ツーアウト、ランナーなしの最後のバッターのようなものだぞ」という、母校仙台二高の大先輩の助言もある。上がったり下がったり、気持ちのジェットコースターを味わっていた。

無い無い尽くし
 決断の決め手となったのは、怒りであった。「勝てるだろうか、負けたらどうしようか」と迷っているうちは、決断できない。「ゼネコン汚職で知事逮捕となった当時の副知事が、そのまま知事に選ばれてしまうような古里など、見たくもない」という思いに圧倒される形で知事選挙に飛び込んでしまったというのが実感である。

 11月1日、23年余勤めた厚生省に辞表を出して、仙台に戻った。知事選の告示は3日後の11月4日。1ヵ月定期にしようか、3ヶ月にしようかと、購入時に一瞬迷った定期券は、結局、2ヶ月分ほど残して使用せずになってしまった。

 17日間の選挙戦は、仙台二高の同級生など素人中心のドタバタ続き。戦術などないに等しい。知名度ゼロ、時間も金も組織もない、無い無い尽くしの選挙であったが、結果は、八木候補に8万票余の差をつけて当選となった。

初戦こそが原点
 厚生省での仕事には、手応えを感じていた。45歳から10年ほど厚生省の仕事を続けて、いずれはライフワークの障害福祉の世界で職業生活を終えることに、なんの疑問も持っていなかった。「知事の仕事は、しばしの仮の姿」という想いがぬぐえない12年間になった理由は、この経緯にある。

  選挙が終わってから、「誰が出ても勝てた」と言われたことがある。それはそのとおりだろう。「みやぎに誇りを取り戻して欲しい」という県民の期待があり、その期待に応える立場で立候補すれば、候補者が誰であっても当選は果たせたと思う。

 つまり、私を知事の座に推し進めてくれたのは、私の能力や実績ではなくて、「宮城県の恥を吹き払ってほしい」という思いであった。このことを私は「出生の秘密」として、知事である間ずっと持ち続けていた。

  知事として悩むたびに、この「出生の秘密」に思いをいたし、最初の選挙の際の原点に立ち戻って、難しい判断をする場面が少なくなかった。そんな場面が、知事就任後すぐにやってくるとは、思いもかけなかった。その詳細は、次回で。


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