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新・言語学序説から 第4回

「時間厳守について」

 7年前に知事という仕事に就く前からも、講演会やシンポジウムなどへの出演機会が少なくなかった私である。その際の、私なりの心構えとしては、「内容はさることながら、わかりやすさ、面白さで聴衆にアピールすべし」ということがあったように思う。若気の至りで、ついつい受け狙いに走り、つまらぬ駄洒落を飛ばしてはひんしゅくを買っていたということもあったように思う。

 もう一つ、時間に厳格ということも、自分に課していた。自分にだけではなく、人にも課していた。特に、シンポジウムなどは、「言葉の格闘技」と思い込んでいたから、持ち時間を大幅にオーヴァーしてしゃべる論者は「ルール違反」として、厳しく批判していた。私自身がコーディネーター役を務める機会には、ストップ・ウォッチを持って時間管理を厳格にやり、少しでも時間超過するパネラーには「時間です」と冷酷に告げていたものである。このことでも、大いにひんしゅくを買っていたと思う。

 ひんしゅくを買っても、時間オーヴァーは許さないという私の信念は変わらない。「言葉の格闘技」ということは、一つの勝負であり、勝ち負けがある。聴衆が判定者で、あの論者、この論者の品定めをしている。持ち時間が公平でなければ、試合として公平でなくなるではないか。「何を勘違いしているのだ、シンポジウムを試合と見るとは何事だ」と叱られるのを承知で言っている。自分が「競技者」の立場になったときのことを考えているので、コーディネーターをしていてもついつい、「審判役」をしてしまう。

 この厳しさが、思わぬ場面で役に立った。7年前に、私がふるさと宮城県の知事選に初めて立ったときのことである。平成5年11月4日告示の選挙、私が古巣の厚生省に辞表を出して退職したのが三日前の11月1日。退職から告示日までいろいろやることがある仕事の中に、テレビでの政見放送の収録というのがあった。

 原稿はつくらず、言いたいことのメモだけつくって収録に臨んだ。持ち時間は5分30秒である。言いたいことをすべて言い切って頭を下げたところで、丁度5分30秒。放送局の人は、内容には感動していなかったようだが、時間ぴったりにはちょっと驚いていた。「昨日や今日の訓練じゃないぜ」と言いたい気持ちを抑えつつ、次のテレビ局に向かったことを思い出す。

 三年前の再選を目指す選挙のときには、候補者同士の公開討論があった。その際も、訓練の成果が遺憾なく発揮されたことは言うまでもない。文字どおり「言葉の格闘技」になった。判定は、それこそ厳しい。8分間の政策演説のあと、10分間の持ち時間を数回の出番にぴったり割り振り、言いたいことをすべてぶち込み、相手候補者への反論をしながら、最後の一秒まで使い切ったときの達成感は、結構ズンときたものである。「芸は身を助く」の言葉が浮かんできた。


 講演やシンポジウムで時間超過する原因は、私にはよくわかる。論者の悪夢は、時間が余ってしまうことである。だから、準備の際には、何割か多めの内容を詰め込む。そういう準備をして本番に臨むものだから、準備をしてきた内容を全部話さないでは家に帰れないという気持ちになってしまう。そこがまちがい。聴衆は、論者がどんな準備をしてきたかなど知る由もない。ほんとうのところ、時間がくれば「早くやめろ」ぐらいのことは思っている。みんなそれぞれ、そのあとの予定だってあるんだから。

 それに加えて、勘違いがある。これは、いわゆる「偉い人」に出現しがちな現象である。偉い人の講演に限らないが、聴衆は、礼儀上、講演者の話は熱心に聴いているポーズを取るものである。うなずいたり、笑ったり、目を輝かしたり、身を乗り出したりのたぐい。偉い人であればあるほど、それを真に受けてしまう。「俺の(私の)話は、こんなにも受けている、ここでやめたら、彼等の期待に応えないことになってしまう」という具合である。

 それが勘違い。偉い人の講演に限らないが、講演もスケジュールに沿って組まれている。その講演が定時に終わることを前提に、あとの予定ができている。全体のスケジュールの終了予定は確定しているのであるから、予定時間オーヴァーの講演者は、あとのイヴェント出演者の時間を奪っていることになる。人間、偉くなると、そういう想像力が働かなくなる可能性が大きくなる。


  人のふり見てわがふり直せ。肩書的には「偉く」なってしまった私とすれば、なおのこと心せねばならない。それでも、知事になってからの私は、時間厳守については、昔以上であることをご報告させていただきたい。

  もちろん、昨日や今日の訓練じゃないぜということはある。時間を守って話す、そういう身体になってしまっているということがある。もう一つは、ゲーム感覚である。たとえ気があまり乗らない講演であっても、時間厳守を演じて見せることを、ゲームとして、自分自身楽しんでしまう。

 さらに言えば、範を示すということもある。こういう言い方が、そもそも「偉そう」なのかもしれないが、あえて言う。偉くなれば、何でも許されるという感覚になるのは、避けがたいことではある。しかし、時間オーヴァーは、その場を共有する人から、時間を無理やり奪うことになるということは忘れてはならない。私が率先して、このことを示したいというぐらいの「お節介」はある。

 もっと言えば、講演での話も、シンポジウムでの発言でも、同じ内容をなるべく短い言葉で、短時間で述べることによって、逆に説得力は増すということはあるらしい。話しているときは無我夢中であるが、聴いている立場になるとそのことがわかる。ぐだぐだしゃべられると、内容自体に信が置けないような気になつてくる。

 こう書いていて、文章も同じだなということに、はたと気が付いた。ぐだぐだ書いていると、内容に信が置けないと思われてしまう。本当は、「あいさつについて」ということを書くつもりだった。その前さばきとして「時間厳守」に触れようとした文章が、こんなぐだぐだになってしまった。ということで、次回は「あいさつについて」を書く。


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