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月刊年金と住宅2001年10月号
新・言語学序説から 第11回

「しゃべり方について」

 人の話を聴いて感動することはないだろうか。政治家の選挙演説を耳にして、「この人なら投票してもいいかも」と感じた瞬間はあるはずだ。テレビのコメンテーターの話でも、説得力のある人とそうでない人がいる。そういった時の判断基準は、話す内容というよりも、実際のところは、しゃべり方のほうであることに気づく。

 現首相の小泉純一郎さんの歯切れのいい、センテンスの短いしゃべり方が、小泉人気を支えている大きな力であることは明らかである。小泉総裁を選んだ総裁選で、対抗に回った元首相の、やや気取った風に聞こえるしゃべり方は、「国民的人気」ということからは、元首相にとってやはりマイナスだったと言わざるを得ない。

 歴代首相では、「あーうー宰相」の大平正芳首相と「言語明瞭、意味不明」の竹下登首相とが好対照。大平首相は、話の途中に「あー、うー」が頻繁に入って、もたもたした印象を与えるしゃべり方だった。だから、性格や政治手法までもがもたもた、愚図愚図と見られる傾向もあったが、実際はそうではない。話した内容を「あーうー」を抜いて読んでみたらいい。素晴らしい文章になっているだけでなく、内容自体も格調高い。大平元首相が、私の最も尊敬する政治家である所以でもある。


 先日、県民の一人からお手紙を頂戴した。よくある類の手紙ではある。「浅野が気に入らない、浅野は知事としてふさわしくない」という内容のものである。匿名なので、書き手の性別は不明であるが、文面から「彼」と思われる。その彼の連ねる批判の中に、私のしゃべり方があった。「ひとごとのように評論家風にしゃべるのを聞いていると、むしゃくしゃしてくる」と彼は「批判」するのである。

 まさに生理的反応である。県政の実績とか、政治的信条であれば議論のしようもあるのだけれど、しゃべり方についての「批判」は対処に困る。直しようがないと開き直るつもりもないが、しゃべり方は、いわばにおいのようなもので、すっかり身についてしまっている。まさに「におい」だからこそ引き起こす生理的嫌悪感というものだろう。

 とは言いながら、「直しようがない」と開き直るのはいけない。私のしゃべり方についての最も率直で辛辣な批評家は、私の妻である。彼女は、テレビに出演したり、壇上でパネリストを務めたりしている私を細かくチェックして、有益な批評をしてくれる。

  実は、しゃべり方というよりも、しゃべっていない時のチェックが結構多い。椅子に浅く腰掛けて背中は背もたれという格好ではいばって見える、あごに手を当てていてだらしない、人が話している時に指をくるくる回していて、イライラしている様子がわかってしまう等々。

 一般論ではなくて、もっと具体的に自分のやってきたことを語りなさいとかいった、内容にわたる批評もある。こういった批判に対しては、開き直ってはならない。直せるところは、努力して直していかなければならない。ただし、声のトーンだとか、話す口調やスピード、間の取り方など、身についたものは、下手に直そうとすると、しゃべることそのものがガタガタになってしまう。こういう「におい」に近いものは、直すのは無理かもしれない。

 政治家として、しゃべり方の良し悪しが端的に評価される場は、選挙演説である。演説への評価がそのまま選挙結果をも左右することになるという意味で、極めて重大なものである。

 
  先の参議院選挙で、輝かしいバックグランドや若さ・新鮮さへの期待から、大量得票すると思われた候補者の票が、結果的には伸び悩んだ。その一つの原因が、候補者のしゃべり方にあったのではないかと「証言」するのは、私のごく近しい知人である。その候補者の政権放送をテレビで見て、あまりに迫力がないしゃべり方にがっかりしたとのこと。

 同時に行なわれた仙台市長選挙は、現職の圧勝であった。新人七人が立候補する記録的な選挙であったが、結局、いずれの新人にも風は吹かなかったことになる。ある有力新人候補者の街頭演説で、演説を終えた候補者に誰一人拍手をしなかったという場面を目撃した友人が語る。「誰一人だよ、誰も拍手をしない。味方の陣営さえも拍手しない演説なんて見たことない」と、その様子の「衝撃」を伝えてくれた。

 「結局は、しゃべり方なんだよね。内容だけの問題ではない。市民が誰も足を止めてくれない。思わず足を止めて、耳を傾けさせるような、魅力的な訴え方ができていないということ」と彼は解説する。そのとおりである。選挙演説はパフォーマンスであるのだから、声の出し方、間の取り方、話すスピード、身振り手振りを含めた、聴衆の注意を引き付ける何物かがないと、道行く人は耳を貸さない。内容をうんぬんするのは、耳を傾けさせてからのことである。


 パフォーマンスだけに秀でていればいいというのでもない。ヒットラーや、インチキカルト集団の「教祖」もしゃべり方の天才のようなところがあった。聴衆は熱狂し、魅入られてしまい、自らの運命すら委ねてしまう。これは、聴く側の問題である。熱に浮かされてはいけない。「感じがいいしゃべり方ね」というだけで、内容への批判を封じ込める心理状態になるのも戒めるべきである。

 何か偉そうに「批評家」をやってしまったが、まずは自らを省みなければならない。前回書いたが、県議会答弁では答弁資料の棒読みではないか。読んでるだけなら「読み方」の問題で、「しゃべり方」などとはおこがましいといった声が聞こえてきそうだ。私としても、まだまだ研究・努力の余地はある。

 しゃべり方が大事なのは、政治家だけのことではない。人柄とか人間性はしゃべり方にそのまま出る。「ぶりっ子」などと呼ばれるしゃべり方はせめて三十歳までの定年制を引いてもらいたいし、逆に、若いくせにもたもたしたしゃべり方は「若年寄」として退場願いたい。

 音声言語としてのしゃべり方は、文章で言えば文体のことである。「新・言語学序説」での私のしゃべり方ならぬ文体はどうであろうか。生理的に受け付けないという人がいたらどうしようなどと思いながら、こんな駄文を連ねている。ついでに、このページに入れられているイラストというか漫画も、しゃべり方の雰囲気を作っていることもお忘れなく。ここに、私の背広にネクタイ姿のごつい顔が使われていたら、文体から受ける感じもだいぶ違う。その前に、多分、読んでみようという気持ちを「生理的に」起こさせないかもしれないな。


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