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月刊年金時代2013年5月号
新・言語学序説から 第112

「日本語について」

 日本語が好きである。正しい日本語、美しい日本語は、なお、好きである。よく言われることであるが、最近の日本語は乱れている。漢字を書けない、読めない日本人が増えている。敬語が使えないのは、若者だけではない。

 母国語を正しく使うのは、その国の文化水準を表す。人間は、言葉を介して思考し、考えをまとめる。だとすれば、国民すべてが、正しい日本語を使えるようにならないといけない。では、どうやったら、それができるのか。その方法を探ってみたい。

 先日亡くなった丸谷才一さんの著書に、「完本 日本語のために」がある。この本では、方法論の前に、国語問題についての厳しい批判が展開される。「国語教科書批判」の章では、「なぜこんなひどい文章を読ませるのか」、「文部省にへつらうな」とあり、諸悪の根源としての戦後国語改革を徹底的に批判し、否定している。

 国語改革で、日常使用される漢字の範囲を当用漢字1,850に制限しているのが、正しい日本語、美しい日本語を混乱させる要因だという丸谷論は、そのとおりである。漢字はむずかしいものという思い込みが為政者にあるらしい。小学校では、「学年別漢字配当表」により、学年別に履修漢字が決まっているので、「二枚の写真」が「二まいの写しん」と教えられるという奇妙なことになる。

 丸谷による批判は、小学校でのローマ字教育に及ぶ。小学生にローマ字を教えるのはまったく無意味であり、何の役にも立たない。「小学生にローマ字を習わせる暇があったら、なぜもっと漢字を教えないのか」という丸山の批判に納得する。

 漢字習得の問題だけではない。「国語改革」は国の事業であるが、言語は国家が管理するものでなく、社会がつくるものである。日本語をああしろ、こうしろと、国家にいじられていいものではない。言語生活は文化の領域であるから、社会に任せておけばいい。国が乗り出すと、ろくなことはない。

 漢字の問題に戻ろう。漢字があっての日本語である。前回の芥川賞受賞作「abさんご」は、ひらがなを多用した、つまり、漢字をあまり使わない文体で書かれている。作者の黒田夏子さんとしては、奇をてらっての書き方ではなく、作品として必然的な文体なのだろうが、読みにくいことはなはだしい。この読みにくい文章を読んでみて、漢字仮名まじり文としての日本語表記が、いかに優れたものであるかを再認識した私。

 漢字仮名まじり文は、中国から漢字を輸入した日本人が、漢字を日本語の中に組み入れるという、卓越した発明の成果である。すべての漢字に訓読みを宛てて、漢字を日本語にしてしまうのは、仮名の発明とともに、言語学の天才(複数形)の偉業である。その恩恵を受けている我々世代としては、次の世にも引き継いでいく義務がある。

 漢字は小学生にはむずかしいから、教える字数を制限するというのが、文部科学省の方針らしい。外国人が日本語を学びやすくするためにも、漢字は少ない方がいいと主張する人もいる。そんなことはない。漢字は、小学生にとっても、外国人にとっても、むずかしいかどうかより先に、面白いものであることに気がついて欲しい。

 「凸凹」という文字は、読むというより見るものだろう。意味が目から入ってくる。「机」、「森」なども形から意味がわかる。子どもの頃、「女」を「くのいち」とか、「櫻」を「にかいの女がきにかかる」と覚えたものだが、これが漢字の面白さにつながる。最近、「鬱」が書けるようになったのはうれしいことだった。といったように、漢字を学ぶことは、楽しいことである。むずかしいからといって、小学生、中学生を漢字から遠ざけるのは愚策である。むずかしい漢字が書けるようになると、作文が格段とうまくなる。

 漢字習得について、付け加えたい。学校の先生が生徒に漢字を教える際に、筆順もきっちりと指導して欲しい。私自身が、今頃になって、漢字の筆順に目覚めたからである。ネットに「漢字の正しい書き方」というサイトがあって、そこでは動画的に筆順を教えてくれる。「右」、「発」、「性」、「官」、「卵」、「感」、「舟」、「補」、「飛」など、まだまだあるが、これらの漢字を何十年もまちがった書き順で書いてきたことを知らされた。正しい筆順で書くと、字が上手に見えることも発見した。小学生には、同じまちがいをさせたくない。先生がたには、生徒への筆順指導をしっかりやってもらいたい。

 美しい日本語、正しい日本語のために必要なのは、漢字の習得だけではない。小学校の早い時期から、美しい日本語、正しい日本語にたくさん触れることが大事である。「日本語のために」で丸谷さんが力説しているのは、よい詩を読ませること。中学生になれば、恋愛詩を読ませることも勧めている。中学生、高校生ぐらいの記憶力が衰えていない時期に読み覚えたいい詩は、いつまでも覚えている。

 よい詩に加えて良い文章を読むことも大事なことである。小学生、中学生が、教科書で名文を読んだら、他の作家の「名文」を読んでみたいと思うだろう。そういうきっかけになるのだから、教科書にどんな文を載せるかはとても重要なことである。

 古文など文語体の文章を学ぶのは、高校になってからというのがふつうであるが、もっと早くともよい。漢文も同じである。意味はわからずとも、小学生から文語体に慣れでおくことは、その後の本格的学習の際に、大いに役立つはずである。

 丸谷才一は「日本語のために」の冒頭で、「昭和の知識人は明治の知識人に比べて文章がずっと下手になっている。いや、上手下手の問題ではなくて、文章を書く力が無残に低下している」と書いている。その焦燥感が、この本を書かせたのだろう。「知識人」とあるのを「日本人全般」と読み替えると、私も同じ思いである。日本語が好きであるからこその思いである。

 という私の書く原稿はどうだろう。美しくないどころか、正しくない日本語である。まだまだ修行が必要ということで、お許し願いたい。


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