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月刊年金時代2013年11月号
新・言語学序説から 第118

「言語生活の遍歴について(続)」

 前回、霞が関言語について書いた。そこでは、言葉の解説をしなかったので、今回、書いておく。「廊下とんび」とは、登庁しても在席せず、他の課をあちこち訪ね歩く役人のこと、「タコ部屋」は法律改正業務など締切のある大事な仕事を任された職員が寝泊まりする(こともある)庁内の執務部屋のこと。「お経読み」とは、法律の提案理由説明を国会で大臣が読み上げることである。

 霞が関言語は他にもある。言語というよりも、話法のこと。提案に対して「検討いたします」と答えるのは、今すぐにやるつもりはないが、記録は残しておきましょうの意味である(と私は理解していた)。「今後の検討課題とさせていただきます」は、ほとんどやる気はないのと同じ(と私は理解していた)。

 霞が関言語の書き言葉版というのもある。ある名詞のあとにつける「等」が曲者。各省間の文書のやり取りの際に、「等」でごまかされることが多いので、そういった文書を受け取ったら、「ここの『等』には、何と何が含まれるのか、具体的に示して欲しい」と切り返さなければならない。

 あいまいな表現、どっちともとれる文章を書くのが、霞が関の優秀な官僚の得意技である。役所外の人たちからは、こういった文書を「霞が関文学」と揶揄されることもある。審議会の答申などに、そういった表現が多いので要注意。

 霞が関の中でも、外務省言葉は、やや特殊である。その一つに「ご如才なきことながら」というのがある。上司に対するものの言い方として、「こういうことに注意してもらいたい」とは言いにくい。「既に十分ご承知のことと存じますが」ということを、さらに丁寧に伝える用法である(と私は理解した)。

 厚生省入省8年目に、厚生アタッシェとして、ワシントンの日本大使館に3年間勤務した時に触れた外務省言葉の一例である。その他に「前広に」(十分な時間的余裕をもって)というのも外務省独特である。「原稿の送付は前広にてお願いします」といったふうに使われる。

 時代が前後するが、入省3年目に人事院の在外研修制度で、アメリカのイリノイ大学で2年間大学院生活を送ることになった。ハワイの飛行場での入国手続きで係官の話す英語が全然聴き取れないのに、ショックを受けた。こんなことでは大学での授業はからっきし聴き取れないだろうと心配になったが、案ずるより産むが易し。実際の授業は聴き取れる。聴き取りにくいのは、アフリカ出身の教師の英語。なまり(英語ではアクセントという)がきつくて、ついていけない。

 そこで、なまりの話。アメリカにも方言はある。南部アクセントと呼ばれる方言など、地域の特性としてのものである。それ以外に、出身国につきもののなまりがある。ドイツなまり、イタリアなまり、そして私の英語はジャパニーズ・アクセントと言われる。

 それとは別に黒人英語というのがあって、文法からして違う。中学校で習う「三人称、単数、現在」(三単現)のSがない。He don't knowとなる。否定形が二重否定になる。しかも否定形が独特。He ain't got nothing (彼は何も持たない)。話し方も独特で、ひどく聴き取りにくかった。

 1対1で話す相手の言葉はよくわかる。授業は聴き取れる。テレビやラジオのニュースは聴きやすい。しかし、映画やテレビのドラマの会話はほとんど聴き取れない。今でもそうである。理由は簡単。自分に向けて話している言葉は聴き取れるが、ドラマの会話は、私に面と向かってのものではないからである。

 大学の食堂で、アメリカ人の女子学生3人と友だちになった。彼女たちとは普通に会話していた。何かのことで、私が日本からの留学生であることがわかった。「あら、シローはアメリカ人じゃないんだ」と言われたのには驚くやら、喜ぶやら。珍しい経験だから、今でも覚えている。

 学生として2年、大使館員として3年、計5年のアメリカ生活なのに、英語はさっぱり上達しない。日本では、英語を使う機会が全くないので、その低いレベルさえ維持できていない。そんなままで人生を終えるのは、寂しい気がするが、仕方がないとあきらめている。

 言語生活の遍歴ということで、次なるステージは、入省16年目、37歳で北海道庁に出向した時に訪れた。北海道の人は、自分たちが標準語をしゃべっていると思っていることに気がついたのが、言語生活でのカルチャーショックだった。「ザンギ」は鳥の唐揚げのことだが、東京でもザンギで通じると思っている。「いずい」はuncomfortableのことで、仙台でも使われる。仙台人は、「いずい」は方言だと認識しているが、札幌の人の半分は、標準語だと思っている(と私は理解していた)。

 電話をかけて相手が出る。「はい、佐藤でした」と過去形で返ってくるのには、しばらく慣れなかった。「いいんでないかい」というのが、目上の人にも使用可というのを知らなかった。課員から、「この案でいいんでないかい」と言われた浅野課長は、課員に軽く見られているのではないかと少し悩んだ。

 入省24年目に厚生省を辞めて、宮城県知事に転身して、ふるさと宮城県に帰った時は、「昔の言語生活が戻ってきた」ということがうれしかった。県庁内では、仙台弁が通用する。偶数月の18日に開催する「一八会(いっぱちかい)」(仙台二高第18期生が集う飲み会)では、仙台弁しか通用しない。ふるさとで知事をやることは幸せだなと実感する場面である。

 心配したのは、小学校3年生で私の母校、木町通小学校に転校することになった娘聡子のこと。「標準語なんかしゃべりやがって」といじめられるのではないか。これは全くの杞憂。クラス全員が標準語をしゃべる。

 2回にわたって、私の言語生活の遍歴を語ってきた。現在は、大学で教える立場で、「マジかよ」とか「チョーむかつく」といった若者言葉にチョーむかついている。その言語生活については書きたくないので、これで終わりにする。これ、マジです。  


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