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月刊年金時代2014年11月号
新・言語学序説から 第130

「安全と安心について」

 宮城県知事時代、県議会での答弁で「松島には、国内外から観光客がやってきます」とか「仙台の牛たんは国内外で有名です」という場面があった。正直、これがとても苦手であった。国内外を「こくないがい」と読むのに、違和感があった。「国内、国外」と分けて言えばいいと思っていた。「国の内外」でもいい。「内外」だけで、「国の内外」という意味だから、「内外」でいい。

 知事の答弁書は部局の職員たちが書いてくるのだが、その答弁書に「国内外」と書いてあるのを、最初、何と読むのかわからなかった。私の頭のなかの辞書にはない言葉だったからである。今、「広辞苑」をめくってみたが、そこにも「国内外」は載っていない。

 これと似たようなのが、「安全で安心な食品」とか、「安全安心を保証する住宅」という言い方である。「安全・安心・安価の三拍子そろった製品」というのまである。これは安易なコマーシャル・メッセージではないだろうか。

 日本語には「安全な」はあるが、「安心な」はない。「安心する」とはいうが、「安全する」とはいわない。つまり、「安全」と「安心」を並べて、ひと連なりの言葉にするのは日本語としては許されないということである。

 これは単なる日本語の問題ではない。原子力発電所の再稼働の議論において、「この原発は安全安心が確保されている」という言い方は、議論としてまちがっている。「安全」と「安心」は、概念としてほぼ同じということを他人に思い込ませる意図があるのではないかと疑ってしまう。

 「安全」と「安心」は、国語的に違うというだけではなく、概念としても相違がある。そのことは、原発再稼働を考えるときに、とても大事なことである。

 原子力規制委員会が個々の原発ごとに、安全基準に適合していると判断すれば、その原発再稼働は、安全性ということでは関門を通過し、ゴーサインが出たということである。しかし、それは第一関門であって、実際に再稼働となるには、立地自治体が再稼働に合意することが必要である。

 ここからは、私が大学で「地方自治論」を講じていることもあって、はなはだ理屈っぽくなる。

 この場合の同意というのは、県知事が同意すれば足りるのか。それとも、県議会も同意することが求められるのか。「地方自治体」というのは、自治体住民の集まりのことだから、住民投票で同意を決しないとならないのか。

 なぜこんなことにこだわるかといえば、このことは、安全と安心は再稼働を決める際には、二つの別々な基準であるからである。知事なら、「原発は安全」ととらえれば、再稼働ゴーとなるだろうが、住民の場合はそれだけで再稼働ゴーとはならない可能性もある。「再稼働したら、私たちは安心できない」という反応がありうるからである。

 ここで、「安全と安心は違う」ということが生きてくる。原発の安全性というのは、原子力工学や地質学、電気工学、建築学の知識・経験を借りて、地震の揺れに耐えられるか、電源喪失の場合に対処できるかなどなど、科学的に客観的に原子力発電所の安全性を判断するものである。

 一方、安心というのは、「安心性」という言葉がないことからもわかるように、客観的に測れるものではない。あくまでも、人の心の中の問題である。

 2011年の福島原発事故以後は、安全基準は厳しくなったが、それほどでもない。一方、。住民の安心感のほうはといえば、原発事故発生以後は、格段に減退した。小さなお子さんを持つ母親には、恐怖感のほうが強い。福島原発事故で放射能被害を受けた子どもたちの間に、甲状腺がんや小児白血病の疑いがあるものが増加している。そういった現象を間近に見て、原発再稼働に対する安心感を持ち続けるのはむずかしい。

 原発再稼働については、電力会社と自治体(県と周辺市町村)が結ぶ「〇〇原子力発電所周辺の安全確保に関する協定」(名称には違いあり)により、自治体の事前了解を得なければならない。自治体が事前了解するかどうかの判断は、安全性に関わる事項を勘案してなされることになる。住民の安心感が確保されているかどうかを判断基準にすることはない。

 一方において、原発立地自治体及び周辺自治体の住民はどう考えるだろうか。原発が再稼働したら安心して生活できない、子どもを安心して育てられないと受け止める住民が多数に及ぶ可能性はある。自治体の為政者たち(首長及び議会)に「事前了解の署名はするな」という圧力をかけることが考えられる。為政者たちが、こういう反対派住民が過半数になりそうだとみたら、署名を躊躇するかもしれない。直近の選挙で落選するリスクを冒したくないからである。

 繰り返しになるが、原発再稼働を容認する判断基準は、為政者と住民とでは異なる。為政者は安全性であり、住民は安全性プラス安心感である。原発事故後は、原発そのものに安心感を覚えない人たちが増えたことも勘案する必要がある。

 再稼働についての結論がどうであろうと、その過程は民主主義の問題である。そのように私が考えるきっかけは、安全と安心は違うということにこだわったことである。  そう考えると、為政者が原子力発電所の安全に関する協定書に基いて、原発再稼働を容認するとの了解の署名をする前には、なんらかの形で自治体住民の意向を確認することは当然である。

 議会の各議員が住民の中に入っていって住民と話し合い、住民と膝詰めでその真意をつかむ努力をしてもいい。それが議会の役割であり、民主主義の実践である。

 言語学で始まったこの稿が、いつの間にか政治学になった。これは突飛な飛躍であるのか、地道な論理であるのか、判断は読者に任せよう。


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