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月刊年金時代2004年2月号
新・言語学序説から 第20回

「口癖について」

 なくて七癖というが、口癖というか、しゃべりの中での癖は、人によってさまざまである。内容というよりは、しゃべりのリズムを取るための意味のないかけ声のようなものもある。今回は、そんな口癖について。

 書き言葉としての文章においても、癖はある。文体と言うには大げさ過ぎるが、たとえば、かぎ括弧の多用、カタカナ言葉の乱発。一つの文章が長々と続く、段落換えがほとんどない、これも癖の一つだろう。しかし、今回は、口癖についてであって、手癖、筆癖については扱わない。

 そこで、口癖についてだが、実にさまざまである。人の口癖は、聴いていていったん気がつくと、結構気になってしまう。言語学に興味のある私としては、ついつい、何回言うのかと、数えてしまう。これそのものが悪癖である。耳癖とでも言おうか。

 以前に、「日本語の乱れについて」の中で書いたことであるが、「ほう」というのが気になる。「コーヒーのほうですが、お砂糖のほうはおつけしますか」という、喫茶店のウエイトレスによくあるしゃべり方である。

  一年ほど前、県外でのことであるが、地元の青年会議所が主催する行事に参加した時のこと。世話役の青年が、我々出席者十人ほどに説明をする三分ほどのしゃべりの中で、二十八回にわたり「ほう」を使用した。数えだしたのは途中からであるが、ついつい、聴きながら指を折ってしまった。「実は、二十八回だったよ」と教えてやった。こういうのは、小さな親切というより、大きなお世話なのだろうが、どうしてもお世話の「ほう」をしたくなってしまう。

  「ほんとうに」というのは、結構多くの人にとっての口癖である。妻の光子にもその傾向がある。決してまちがった話法ではないのだが、三分間に十回以上の使用頻度になると、「ほんとうに」気になる。

  「いわゆる」も、愛用者が多い。正式な名称を、別な言い方で簡略に言い直すために使用されるのが、本来の使い方であるが、それをはずして乱発気味になる人が少なくない。「しゃべるときの癖、いわゆる口癖について話します」というのは正しい使用法。そうではなくて、名詞の前にひんぱんに「いわゆる」をつけてしまうのは、聴いていてどうしても気になってしまう。野球関係者の某氏の「まー、その、いわゆる一つのベースボールですね」という言い方は、漫談などで引用されることがあるが、これはこれで「いわゆる」ご愛嬌。

  始めにつける「ま」、「まー」、終わりにつける「ね」。これらは、しゃべりのリズムを取る上で必要なのかもしれないが、乱発すると聴きづらくなる。こういった無意味な音声は、普通の会話でしゃべっている際にはあまり出なくて、改まった席、緊張する場面ではやたらに出てくる傾向はある。

  癖だから、本人が気がついていても、ついつい出てしまう。意識の底にあるものだから、厄介である。伊奈かっぺいさんの漫談で聞いたエピソード。青森県出身の女性がすっかり標準語を身につけていたと、本人もまわりも思っていた。その女性があるパーティーに出席して、むこうずねをテーブルの角にぶつけた時に、思わず出た大声が「いでー」。癖は簡単には直せない。

  癖は伝染する。そんなことを感じさせるのが、「させ用法」と私がひそかに呼んでいる言い方である。「私に行かさせてください」、「乾杯の音頭を取らさせていただきます」のたぐい。どちらの場合も、「さ」は不要。わーすごい。この原稿をパソコンに入力したら、すぐさま、「行かさせて」、「取らさせて」のところに注意喚起の波線が表示された。このパソコンは賢い。このことでもわかるように、書き言葉では、さすがに「行かさせて」といった間違いはあまりないが、話し言葉では、このごろしょっちゅう聴く。現代日本人の話法劣化を心から嘆く立場からは、こんな「させ用法」の誤用が全国的な癖として流行しないうちに、食い止めなければ大変なことになる。

  私にも、口癖はたくさんあるはず。「はず」というのは、自覚していない証拠。知事になったばかりの頃、障害者問題についてテレビでインタビューに応じているのを、昔の友人が見ていて、あとで伝えてきた。私が、何度も『やっぱ』と言うのを注意してくれるものであった。「あそこは、『やっぱ』じゃなくて、『やはり』とか『やっぱり』と言わなきゃだめです」とのこと。

  これは、数少ない注意喚起の機会であった。言ってきたのは、障害福祉関係の昔の友人である。友人という立場だから率直に注意してくれた。知事にはなかなか言えないということもあろう。他のこともそうであるが、こうやって知事はしゃべり方だけでなく、いろいろなことも、「やっぱ」どんどん劣化していき、「いわゆる」裸の王様化していくのだろうか。

  口癖も、悪いものだけではない。「『人間真っ正直に生きなさい』って、死んだ父は口癖のように言っていた」という場合などである。これは、モットーとか、座右の銘とかいうことに近い。私は、これが苦手である。「浅野さんの座右の銘はなんですか」と聞かれて、まともに答えられたためしがない。持っていないのである。他の人はともかく、自分では座右の銘のようなものを持つのが、気恥ずかしいという思いがある。「足下に泉あり」ということは、県庁に新しく入ってくる職員への訓示では言うことがあるが、これこそが自分の座右の銘ですというほどのものではない。

  どうせ癖をつけるのなら、いい癖をつけたい。そのためには、訓練、練習が必要である。それも、人生の早い時期からが望ましい。小学校、中学校の段階から、人の前で恥ずかしくない話ができるような練習を、授業の中ででもしっかりとやるべきである。教える側の先生だって、一人前の話をすることができているかどうか。子ども同士、先生同士で、変な癖を指摘しあいつつ、悪い口癖は直していく。そういうことが必要である。

  こういう偉そうな口の利きかた、これが私の口癖の一つなのかもしれない。


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