浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

月刊年金時代2004年4月号
新・言語学序説から 第22回

「月並み表現について」

 言語学にいささかの興味と関心を持っている私としては、日本語の文化の一つとも言える洒落については、一家言ある。自分でも、しょっちゅう洒落を口にする。洒落に限らず、気の利いた言葉は、タイミングというか、どんな場面で言われるかがすべてである。それに加えて、誰でも言うようなセリフ、使い古された洒落では、聞いているほうが心底しらけてしまう。

 私が知事になってから、かつての友人の中で、これをやるのがいる。ちょっとでも私が思い迷うようなことを言うと、「チジに乱れる」と応じる。言っている本人は気の利いた洒落と思っていても、これまで何人かに同じことを言われているこちらにとっては、「おいおい、またかよ」ということになる。知事たる私が、こういうモノ言いは何度もされているだろうという想像力が働いてもいいのではないか。礼儀上、笑ってやるが、ホントははっきり指摘してやるのが、本人のためかもしれない。「それって、月並みそのものだよ」と。

 洒落についてさらに言えば、洒落の名手とは、いい洒落を数多く言う人ではない。面白い洒落が1ポイントだとすれば、月並みな洒落にはマイナス1ポイントを進呈しなければならない。その合計点が大事。つまり、駄洒落とか、オジサマ・ギャグとか呼ばれる月並みでセンスのない洒落を言うたびに、減点されるという採点法を採用する必要がある。まずは、お前はどうなんだと問われそうであるが、私自身の洒落度の通信簿としては、マイナスになっているような気はする。

 ともあれ、月並みは排するべきである。排すべき月並みとは、単なる決り文句とは違う。言っている人も、そして聞いている人も、これは決り文句だと了解しているなら、それでいい。ところが、「どうだい、気の利いたセリフだろう」と、言っている本人だけが悦に入っている場合がある。これが絵に描いたような月並み。罪になる月並みセリフである。

 それを聞いて、聴衆の半分ぐらいは笑ったり、感心したりの素振りを示すから、言ったほうは受けていると錯覚してしまう。ホントに初めて聞いて感心している人も中にはいるが、お世辞(こういうのもお世辞というのかね)で笑っている人もいる。それを真に受けてはいけない。

 「スカートとスピーチは、短いほどいいと言います」というのは、さすがに誰も気の利いたセリフとは思わなくなった。「スピーチは短く、幸せは長く」というのは、まだ賞味期限が切れていないと思われているのだろうか、最近でも何度か耳にする。「人生には、上り坂、下り坂、そしてまさかというのがあります」というのも同じようなもの。

 こういったセリフを聞くたびに、「ああ、またか」と思ってしまう。ひょっとして、聴衆の何割かにとっては、聞き飽きた表現かもしれないと疑いながら、照れ臭そうに言ってくれればまだいい。「どんなもんだい、面白いだろ」と得意気な様子が声音にも出てしまうようなのは、ちょっといただけない。

 月並みと似ているが、同じような話の繰り返しというのがある。つまり、その人の持ちネタである。私で言えば、当地で全国大会が開催され、各地からのお客様をお迎えする場面で繰り返し使っている。「この会が終わったら、まさかまっすぐにホテルに戻っておやすみということはないでしょうね。ご視察の一環として、東北随一の繁華街国分町に繰り出してご散財いただき、県経済の発展に少しでも貢献いただきますように」といったものである。これは、一応は、私のオリジナルなので、「ああ、またか」と思われても、月並みとはちょっと違うつもり。

 月並みと言えば、歌謡曲の歌詞である。演歌がみんな同じに聞こえるのは、メロディーラインが似ているせいだけではない。歌詞も、見事なまでに月並みというのが多いからである。大体が、じっと待つだけの耐える女、不倫のときめきと罪の意識にふるえる女というパターン。だからこそ、安心して聞いていられるということもある。偉大なる月並み、究極のマンネリである。

 ところで、このマンネリの語源をご存じの方は、少なくなっていると思うので、ひとくさり。これは、マナーからきている。マナーが悪い、マナー教室など、すでに日本語化しているが、作法といった意味である。流儀、作風、定番という意味もあり、それにイズムをつけて、定番主義ということになる。正しく発音すれば、マナリズムであるが、スペリングをローマ字読みしたのだろう、マンネリズム。略してマンネリ。英語を母国語とする人に言っても、絶対にわからないだろう言葉のひとつ。

 月並みでもいいかなと思うのは、結婚式のスピーチである。本人にとっても、親御さんにとっても、普通は一生に何回もあるものではない。決まりきった挨拶でも、それなり以上に感動するものである。そもそも、新郎、新婦にとっては、心ここにあらずで、気合いを入れて聞くというモードでないかもしれない。スピーチするほうからしても、下手にオリジナリティを出そうと思うと、とんでもなくしらけた挨拶になってしまうというリスクもある。どう転んだってメデタイ場面なのだから、受けねらいはしなくても可であろう。心に残るスピーチが一杯ということになると、「あの感動をもう一度」などと、新郎、新婦それぞれが、二回目の結婚式を期待してしまうようになったのでは、かえってまずい。

 四十年近く前になるが、大教室での大学の講義で、自分の書いた教科書のとおりの授業をしている教授がいた。ほぼ、一字一句違わない。これを月並みというのかどうか、言語学的には意見がわかれるが、それにしても、何と評したらいいのだろう。おとなしく聞いているほうも、おかしいのかもしれない。今の大学でも、そんな講義がされているのだろうか。これで育っていく日本の若者が大人になった時に、月並みセリフから脱皮するのには、相当の努力が必要になることだろう。

 今回を含め、お前の文章こそが、月並みそのものと言われそうである。連載やめようかな。  


TOP][NEWS][日記][メルマガ][記事][連載][プロフィール][著作][夢ネットワーク][リンク

(c)浅野史郎・夢ネットワーク mailto:yumenet@asanoshiro.org