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月刊年金時代2005年8月号
新・言語学序説から 第38

「通訳について」

 この五月に、ソウル、大連、瀋陽を訪れる機会があった。多くの通訳の方にお世話になり、通訳の役割の大事さに思いをいたす機会にもなった。

  知事として、この十二年間に、何度も海外に出る機会があり、多くの通訳のお世話になった。大体において、素晴らしい能力を持った方々ばかりであった。その中でも、十年前のドイツ訪問の際の通訳の方の名通訳ぶりが忘れられない。

  この時は、ドイツ新聞協会に私一人が招かれたということもあり、少人数での調査訪問であった。首都機能移転問題、介護保険制度、地方分権、男女共同参画社会といった調査項目であり、少々欲張った内容ではあった。

 これらの諸問題について、専門的な説明を受け、当方からも踏み込んだ質問を発した。あれだけ熱心に勉強した海外視察は後にも先にもなかったと、自分でも感心するほどであった。その際に、卓抜した通訳ぶりを発揮してくれたのが、彼女であった。私のドイツ語の能力は、ほとんどゼロであるから、彼女の通訳が本当に正確なのかどうかは確かめようがないのだが、質問に対する相手の答の的確さで、正しく伝わっていることがわかる。こういった通訳ぶりもあって、この時のドイツ訪問で学んだことが、その後の知事業において、大きな役に立っている。

 通訳は、単に、一つの言語を他の言語に言い換えるだけではない。専門用語も含めて、言葉の正確な意味を理解していなければ、正しい通訳はできるはずもない。そのことを思い知らされたのが、四半世紀前のアメリカ大使館時代の経験である。

 私は厚生省担当のアタッシェだったので、日米年金通算問題で日本から担当者が来た時には、通訳を務めることになった。アメリカ側でも通訳を付けていたのだが、この通訳がまるで役に立たない。年金制度の知識がほとんどないものだから、通訳のしようがないのである。

  私にしても、それまで年金の仕事をしたことがなかったので、年金の専門用語はわからない。「じゅずつなぎ年金」、「カラ期間」、「在老(在職老齢年金)」と言われても、そもそも概念がわからないのだから、英語に直しようがない。とても苦労したのを思い出す。

  こういった自分自身の経験もあるので、通訳は実にむずかしい所業であることは、十分にわかっているつもりである。だからこそ、的確に通訳してくれる方に出会うと、心から感心してしまうことになる。まさに、言語学の達人と言いたくなる。

 言語学に加えて、記憶力に優れていなければ、いい通訳にはなれない。今回、八泊九日で韓国・中国とでかけたが、特に中国で出会った通訳の記憶力には驚かされた。中国も、大連がある遼寧省は、日本語のできる人が多くいるところであるから、その中で通訳を務める人の言語能力が高いことは想定の範囲内。しかし、それに加えて、途中で区切らずにずらずらと語られた言葉をよどみなく、メモもほとんど見ずに他言語に変換する能力に圧倒された。

 同じ訪問で、韓国ソウルを訪ねた時のこと。通訳を務めたのは金さんという方であった。レセプションの前のちょっとした会合で、私がスピーチをしたら、その後に、彼女からお願いをされた。「私たちはこの会合のために、ずいぶん前から準備をしてきた。通訳の出来次第で、この会合の成否が決まる。通訳としては精一杯努めるが、ぜひ今のように、はっきりした日本語で、短く切ってのスピーチをして欲しい」というものであった。

 自分のためではなく、会合の成功のために協力して欲しいという通訳の方に会ったのは、初めての経験であった。なるほどと感心させられた。当然ながら、続いてのレセプションでは、短く切って、大きな声で、わかりやすい印象的な日本語で話すように私も努力した。そのおかげもあって、会場の反応はとてもよかった。受けたのである。これは通訳の示唆があったからこそであり、私からも金さんに感謝したものである。

 金さんから言われるまでもなく、通訳を介してのスピーチには、それなりの心構えが必要である。ともかく、短く切って話すこと。言葉はある程度リズムに乗ってしゃべるものだから、ブツブツ切って話すとリズムに乗れない。つまり、うまくしゃべれない。それを克服してしゃべることが求められる。それぐらいのことは覚悟しておかないと、いかに名演説でも、聴衆に訴えることはむずかしい。

 そういう事情もあって、通訳付きのスピーチは、なんとなく普通の日本語と違った感じでしゃべることになる。「普段はこんなふうに日本語話さないよな」と、自分でも意識しながら、ちょっとぎこちない日本語になってしまう。留守電に録音するときのぎこちなさに似ている。

 今回の訪問の最後に、遼寧省瀋陽市での日中経済協力会議への出席があった。十分間、宮城県と中国との経済協力についてスピーチをする役目があった。あらかじめ用意された原稿が使われる同時通訳方式である。普段のスピーチは原稿なしなので、原稿を読むのは、私にとっては未知の領域に近い。

 他の人のスピーチの際の同時通訳ぶりを聴いていたら、通訳のスピードが遅れがちであることに気が付いた。私のスピーチでは、ゆっくりとしゃべることにしたが、あまりゆっくりでは、母国語で聴いている人には奇異である。かえって聴きにくい。そこで、普通のスピードでしゃべって、時々は、同じフレーズを繰り返したり、言い換えたりをしてみた。結果的に、これが好評であったので、ここでも一つ学んだような気がする。

 言語学に関心がある私のような人間にとっては、通訳のことは、人一倍気になる。通訳を気にするということは、自分の言語能力を鍛えることにつながる。

  通訳の立場からすれば、お願いですから正しい、わかりやすい日本語を話してくださいということになるのだろう。私がそばで聞いても、日本語として理解不能な言葉を語る人がいる。これでは、通訳不能。日本語を母国語とする我々にこそ、日本語教育が必要と実感してしまう。


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