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月刊年金時代2006年9月号
新・言語学序説から 第51

「ボランティアについて」

 早速に言語学であるが、「ボランティア」とは何語ですか。これは、私がボランティアについて講演をする時に、冒頭に振る質問である。英語ですって? アメリカに行って、「アイ・アム・ア・ボランティア」と言っても通じないと思うよ。まず、アクセントと発音が違う。あなたの「ボランティア」とでは、「ラ」にアクセント。英語では「ティ」にアクセントがある。それに「ボ」は「BO」ではなくて、「VO」だからね。だから、あなたの言う「ボランティア」は、英語としては通じないだろうと思う。

 講演では、さらに続ける。「ボランティア」は日本語だよ。意味は「無報酬で奉仕をする人のこと」と思いこんでいる人もいるけど、英和辞典で真っ先に出てくる訳は「志願兵」ですからね。つまり、「只で」という意味はなくて、「自発性」、「任意性」というのがボランティアならぬVOLUNTEERの真髄である。

 大阪ボランティア協会の早瀬昇事務局長は、ボランティア活動を「やむにやまれぬ心の動き」と意訳した。これを私は使わせてもらって、聴衆には「何かに似ていませんか。そうです。恋に似ています。恋を強制されてやる人はいません。行く手の障害が厳しければ厳しいほど燃えてしまうのも、恋とボランティアに共通しています」と続ける。

 講演の引用はこの辺でやめておく。ともかく、ボランティアは自発性が命ということ。「自発性は揮発性」、つまりは移り気なものと揶揄する人もいるが、それでいいじゃないか。ボランティアに多くを期待してはならない。 ボランティアを指差して、「あの人は立派な方、奇特な人」という人物評は、「だから俺はやらない。私にはとても無理」という言い訳をする際の常套手段である。「奇特な人」という字をじっと眺めてわかるように、「特別」の「特」の前に「奇妙な」の「奇」がついている。つまり、ちょっと変わった人という意味も込められている。

 ボランティアを奇特な人にしてはならない。立派なことをやるのではなくて、気ままにやってみたら、それが世の中の役に立っていた。これは面白い、もっとやってみよう。こういうきっかけづくりができれば、ボランティアはもっともっと増えるだろう。一見ちゃらんぽらんな人がボランティアをやる形が一番いい。立派そうなボランティアは、ちゃらんぽらんに見えるように務めてみることも、仲間を増やすいい方法である。

 犬の散歩が日課のおじさんにお願いしてみる。「犬の散歩を、小学生の登下校の時間に合わせてもらえませんか」。これが、今、全国各地で頻発している幼児誘拐の防止になる。犬の散歩でなくて、本人の散歩でいい。その地域の中で、多くのおじさん、おばさん達が同じようなことをやれば、これは立派に見守りによる犯罪の抑止力になる。そのおじさんにしてみれば、「俺がやっているのが社会貢献だなんて、考えてもみなかった」ということなのだろう。しかし、ちゃんと社会のためになっている。こういったように、「なにげなく、さりげなく」やっていることが、気がついてみたら社会貢献になるという、自然体ボランティアが、私には一つの理想のように思える。

 この図式においても、専門家の存在が必要なことは忘れてはならない。「散歩の時間を変えてください」と、おじさん、おばさんに頼むのは専門家の仕事である。地域の中に、そういったおじさん、おばさんをたくさん作るというネットワーキングの仕事も、専門家の領域である。そういったコーディネーター機能を果たす少数の専門家がいて、その周りを大勢の非専門家であるボランティアが囲むという形で、地域の底力が形成されていくような気がする。

 こういったことを形にすることを目的にして、「地域創造ネットワーク・ジャパン」が発足した。その代表に、不肖私が就任してしまった。きっかけは、団塊の世代が定年を迎えて、大量に地域デビューを果たすという状況の到来である。これは単なるきっかけであって、狙いは、地域の中の引退シニア達がいろいろな形で社会貢献活動をするのをお手伝いしようということである。

 男性のシニアは、現役時代の実績もあるし、人的ネットワークも豊富である。いろいろな特技を持っている人もいるし、何かお役に立ちたいという情熱で一杯の人もいる。そういった人材を使わなければ、シニアにとっても、地域にとっても大きな損失である。はやりの表現で言えば、もったいない。シニアの想いと社会のニーズとを結びつける役割を担おうというのが、「地域創造ネットワーク・ジャパン」である。

 ボランティアという用語を間違って使うなという言語学的な批判から始めた論考であるが、大事なことは用語の使い方ではない。人間の使い方が重要なのである。その際に、「できる限り」ということも意識したい。「できる限り」というのは、「誠心誠意、一生懸命に」と聞こえるが、行政用語で使われると、「(予算、人員、制度の制約の中で)できる範囲のことしかしないからね」という予防線的言辞になってしまうことは、聞く側として要注意である。

  ここで私が「できる限り」と言っているのは、文字通りの意味で、それぞれの人たちが、それぞれの得意分野の範囲内でいいから、その範囲で協力してちょうだいということである。これこそが、ボランティアの真髄である。  つまり、得意でないこと、むずかしいことは専門家に任せていい。自分の得意分野なら、それをやるのは楽しいだろうし、誇りも持てる。そういった活動なら長続きする。ボランティア、又は社会貢献に興味のある人には、こういったことも考慮に入れておいてもらいたい。

 この連載だって、私にとってはボランティア。ちゃんと原稿料はいただいているが、書くことの専門家ではない。「できる範囲で」書かせてもらっている。だから長続きしているんだろうな。この稿を書いていて、そんなことも心に浮かんだ。


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