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月刊年金時代2008年3月号
新・言語学序説から 第67

「あってはならないことについて」

 食品偽装など、企業の不祥事が頻発している。不祥事が発覚して、企業のトップが謝罪の記者会見を開く場面を目撃することも多い。そこで聞かれる言い方に、「あってはならないことが、起きてしまいました」というのがある。言語学についてのエッセイであるから、あえて言葉遣いにこだわると、「あってはならないこと」という言い方の中にこそ、企業不祥事の本質が現われている。

 企業の不祥事は、あってはならないことではあるが、現実にはしょっちゅう起きている。「あってはならないこと」というのは、企業運営にあたってのリスクと言い換えたほうがいい。そのように言い換えると、リスクは現実化することがあるからこそ、リスク管理が必要になるという認識に至る。

 企業運営上のリスクとは、メーカーであれば、欠陥商品を生産してしまうこと、生産作業中に事故を起こすことであり、一般企業であれば、社員による横領、背任、裏金づくり、交通事故、セクハラなどなど、あらゆる種類の不祥事があげられる。リスク管理としては、企業運営にあたって、リスクが現実化しないように、社内規定の整備、社員研修、製造過程のマニュアル化などなど、これもあらゆる種類の方法がある。

 そういった努力、目配りをしても、リスクは現実化するのである。つまり、企業の不祥事は、いつでも、どこでも、起こり得る。問題は、その後の対応である。これが危機管理と呼ばれるものである。事故が起きてしまったこと、社員が不祥事を起こしてしまったことは仕方がない。まずやらなければならないことは、ステーク・ホルダーに対する事実の説明を行うことである。 「訳のわからん横文字なんか使うな」と、この連載では書いてきた私であるが、「ステーク・ホルダー」と、思わず横文字を使ってしまった。これは「利害関係者」ということである。あえて横文字で書いたのは、企業のコンプライアンス(ほらまた、横文字)、CSR(企業の社会的責任)を論じる時に、この用語が使われるからである。

  企業のステーク・ホルダーとは、取引先、消費者、株主、社員、そして社会一般である。説明は、事実をありのままに、わかりやすく、そして、何よりも迅速にということが求められる。この説明は、できる限り、トップが自らやるべきものである。

  平行して、不祥事が起きたことの原因解明とその対策、責任者への処分、社内組織の改善などが必要であるが、こういった一連のことを危機管理と呼ぶ。不祥事が発生した後の事後的対応である。これが的確に行われないと、不祥事が単なる不祥事で終わらず、企業の存亡にまで関わってくる。

  最近の食品偽装関連だけでも、「白い恋人」の石屋製菓、ひき肉偽装のミートホープ、大館の比内鶏偽装、伊勢の赤福、船場吉兆、不二家。もうちょっと前の事件であるが、雪印食品は企業としての存在まで失ってしまった。それぞれの不祥事を受けての記者会見で言われたことが、「あってはならないことが起きてしまいました」という趣旨の言葉であったことを、もう一度思い起こしてみたい。

  「あってはならないこと」と認識しているから、不祥事の発生を認識した時点で、組織としては、「隠そう」という行動に走るのである。「ありうることだ」と、最初から認識していれば、隠すのではなくて、発生したものは仕方がないという姿勢が保てる。これにいかに対処するか、どうやったら再発を防止できるのかということが、次の課題として明確に掲げることができる。

  「あってはならないこと」は、「ない」ということと同義語ではない。このことで思い出すのは、私が宮城県知事就任の頃の宮城県女川町のことである。この町には、東北電力の原子力発電所が三基設置されているが、十四年前の当時は、原子力発電所の事故を想定しての、町民を巻き込んだ防災訓練はなされていなかった。

 訓練をするということは、原子力発電所事故があり得ることを前提としている。「あってはならないこと」なのに訓練をしたら、住民から「事故は絶対にないという説明だったが、万が一はあるということではないか」と責められるのが怖いということも、訓練せずの原因のひとつであっただろう。

  もちろん、現在では、町民も一緒になって事故対応の防災訓練は行われている。それが正解。あってはならないことだからこそ、事故発生を防ぐための万全の措置が取られる。万が一、事故が発生した時にも、被害を最小限にするための事前の措置を取っておくことは、当然必要なことである。

  「あってはならないこと」を漢字で表現すれば、「無謬性」となる。私は無謬性の神話の落とし穴と言っているのだが、最近の年金記録問題の背景にも、このことがあると思っている。年金という、老後の所得を保障する重要なものについての記録が、完璧でないはずはないという期待が、「完璧なはずだ」という無謬性、それを扱う役人とその組織に対する無条件の信頼につながったのだろう。

  まちがいは、あってはならないことだが、あり得るという、当たり前の認識に立てば、年金記録の管理という重要なことを扱うにあたっては、役人を絶対的に信頼する代わりに、年金背番号制の採用に至る。これを早い時期に導入しておけば、混乱は未然に防げたはずである。「役人だってまちがいはあるさ、人間だもの」という当たり前の認識が、無謬性の神話に取って変わられた結果としての悲劇を、私たちは目の前で見ている。

  だから私は、こういった文章を書く時にも、「絶対まちがってはならない」と思い詰めたりはしない。「あってはならないこと」だから、極力、まちがいはなくしたいとは思うが、結果として、そうはいかないことは十分に認識している。読者の皆様におかれても、同様であっていただきたい。ここに書かれていることが、一から十まで完璧な真実であるなどと思わずに、まちがいがあっても、暖かい気持ちで見逃して欲しい。まちがったっていいでしょ、人間なんだもの。


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