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捜査「協力者」とは

2005.7.5

 県警犯罪捜査報償費の予算執行に関して、捜査に協力して情報を提供し、それへの謝礼を受けるという「協力者」のことが、あまり正面から論じられていない。支出文書記載のとおりに謝礼を受け取っている協力者が、実際に存在するのかどうかも論点であるが、ここではひとまず置いておいて、「協力者」とは、一体全体どういう人たちなのかについて、私の知識と知的能力(推理能力)を総動員して、考えてみたい。

 県警がいつも行う説明は、「協力者はその存在を知られると、生命に関わるような危険を侵すことになる」というものである。「だから、内部監査でも調査対象にできないし、知事に名前を見せることもできない」ということになる。一言で言って、協力者はすべて「おどろおどろしい存在」、そしてこちらから見ると「腫れ物に触るように扱われるべき存在」かの如きである。

 警察がここで描き出そうとしているのは、暴力団関係、覚醒剤犯罪、銃砲がらみの協力者のイメージである。確かに、おどろおどろしい存在である。その存在を秘匿するために、腫れ物に触るかのような配慮がなされるべきものだろう。こういう協力者の多くは、「エス」と呼ばれて、捜査員と個人的に結びついている。そういう存在らしい。こういった協力者に謝礼を渡しても、それが支出関係文書に記載されることは、まずない。それはそうだろう。名前が決裁文書に記載されれば、上司、同僚など多くの目に触れることになる。その存在の秘匿を絶対の条件にする「エス」にとっては、そしてそれを抱える捜査員にとっても、そんな危険なことは、できないであろう。この場合は、謝礼が支払われるとしても、それは別途の財源ということになる。2行目の「支出文書記載のとおりに」という箇所を斜体で記したのは、こういった理由からである。

 となると、支出関係文書に名前の記載されている「協力者」は、どういった人たちなのであろうか。少なくとも、おどろおどろしさにおいて、上記のような「エス」ほどではない種類の人たちが混じっていることは確かである。例えば、鑑識課、鉄道警察隊などの業務に協力した人が、知事にその名前を知られたということで、「命の危険にさらされる」とか、捜査員との信頼関係に傷がつくことになるとは、私にはどうしても思えない。

 継続的に情報を提供している「協力者」もいるだろうが、事案を見ればすぐ察しがつくのだが、特定事件だけの「協力者」もいる。そういった「一回限りの協力者」の場合であっても、名前を公表までされたのでは、あとに続く「一回限りの協力者」は得られにくいだろう。しかし、公表ではなく、知事に名を知られるだけのことが、一回限りの協力者において、どれほどの負担や危険になるのだろうか。ここもどうしても理解できない。

 「危険」についてのバランスの問題もある。知事に名前を知られるということを「命の危険にさらされる」とまで感じる人が、そもそも1万円ほどの謝礼で捜査情報を提供するだろうか。しかも、その情報は、喫茶店、飲食店、路上、公園など、不特定多数の集まる場所で捜査員に対して提供され、謝礼もそういった場面で捜査員から手渡される。そんなところを目撃されたら、それこそ「命の危険にさらされる」のではないだろうか。

 むしろ、こういった形で情報提供をする「協力者」は、そんな危険を感じていないと見るほうが素直である。感じているとしたら、謝礼の授受、情報の提供は、完全な密室でないと納得しないはずである。謝礼の額は、純粋に情報提供への対価であって、「危険侵し料」は含まれていない。もし「命を危険にさらす」というほどの「危険料」も含まれているとしたら、謝礼はあまりに少額である。

 バランスということで言えば、それこそ命を危険にさらすほどの情報を提供した人で、警察から謝礼を全くもらっていないという人がいる。いわゆる「聞きこみ」や交通事故の目撃証言において、相手方は情報提供者、協力者だと思うが、謝礼は支払われているのだろうか。「エス」の場合を別とすれば、「警察には金で情報を買うという文化は(少なくとも最近までは)ない」と教えてくれた元北海道警幹部の原田宏二さんの言葉を思い出す。

 実際の捜査において、犯人特定などで最も重要な情報を提供してくれるのは、その犯罪の被害者である。捜査報償費による謝礼を受け取っているかどうかは不明であるが、実質的な協力者である。多くの場合、被害者の名前は新聞紙上においても公表されている。「腫れ物に触るかの如く」扱われている存在とは正反対。だから、私もその存在を知ることができる。犯人が逮捕された後、実質的協力者であろうその被害者を私が訪問し、面談して、「あなたは謝礼を受け取りましたか」と尋ねることはできる。これは、協力者を危険にさらす行為になるのだろうか。捜査員と協力者の信頼関係を損なう行為になるのだろうか。

 何を言いたいかと言えば、正規の支出手続きで謝礼を受け取った「協力者」だけが、捜査員との信頼関係を守るとか、命の危険をさらしてはいけないといったことで、ことさらに厳重に秘匿されるということが、バランスを欠いた議論に聞こえませんかということである。

 協力者の中には、私に会いたいという人もいる。実際にお会いした人もいる。「謝礼をもらっている協力者なんていない」と知事が言っているらしい。そんなことはない、現に、自分は何度ももらっている。そのことを知事にわからせたいので、会って伝えたい。そういう想いなのだろう。確かに、そういう人はいるだろう。ただし、その謝礼は、正規の手続きにしたがって、支出文書どおりに支払われたものかどうかは、ぜひとも確認が必要である。その際には、「協力者の秘匿」の心配はいらない。ご本人のほうから面談してきているのだから、当然である。むしろ、秘匿どころか、「知事にぜひ会いたい」という協力者もいるということは、私にとっては新鮮な情報である。

 これに関して言えば、「協力者」の中には、自分は捜査に協力して謝礼はもらったが、知事から一言も「ありがとう」と言ってもらっていないと不満な人もいるのでないか。もし、その情報で事件解決に至ったという事例があれば、私からぜひとも感謝の意を表したい。本人の希望次第で、公表ベースでもいいし、又は密かに感謝状だけでもいい。そのような希望が申し出られたケースは、今までに全くない。

 ここまで私なりに一生懸命知恵を振り絞って書いてきたが、ここにきても、「協力者」の具体的イメージがどうしても取り結べない。わからない。「協力者」とカギカッコ付きで書いたのは、イメージが湧かないからである。北海道旭川中央署での「協力者存在せず」という事実を知ってしまうと、ますますイメージが混乱してしまう。私の想像力も、ここまでという感がする。

 ここで書きたかったのは、捜査報償費問題を論ずる時に、県警バージョンでの「協力者」のイメージを前提としてしまうと、方向を見失う恐れありということである。協力者についての話も、県警はストーリーとしては、それなりの説明をしているが、なるほどというエピソードがない。ストーリーとエピソードの違いがわかってもらえるとうれしいのだが、この件での私のことばの使いようとしては、ストーリーは一般論で話の中に固有名詞がない、エピソードは体験談のようなもので、(たとえ仮名であっても)固有名詞と状況描写がふんだんに散りばめられている。私にとっては、エピソードとしての協力者のイメージが浮かんでこないから困っているということにもなるだろうか。



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