2009.2.28(土)
2月最後の走りは、8キロ。これで、今月の月間走行距離は、166キロ。走った日は、16日であった。
愛知県岡崎市で医療を必要とする重症の障害者のための施設を自分たちで作る運動を進めているNPO法人「蕗の薹」での講演。1200円の入場料を払っての聴講者が400人ほどだったろうか。その熱気には、こちらも熱気で応えなければならない。必ずしも大きな力があるわけではない団体が、これだけの会を催すだけでも、大変なことである。スタッフの方々の熱心さも印象に残る。
東京に取って返して、パルシステムの顧問の下山保さんの出版パーティーへ。「パルシステム」というのがピンとこない。私にとっては、首都圏コープの名前のほうが馴染み深い。厚生省で社会局生活課長をしている時、独特の生協活動をしているところで、そのリーダーが下山さんだった。昔の学生運動の人たちなどが、熱気を振りまいていた。
2009.2.27(金)
TBSテレビ「朝ズバ」出演。09年度予算案が今日衆議院通過予定などの国会情勢に加えて、小沢一郎民主党代表の「米軍は、第七艦隊ぐらいで十分」との発言について、話題が広がった。安全保障問題は、民主党内でも必ずしも一枚岩にならないが、その問題を、このタイミングで党首が発言するというのは、やや唐突感がある。言っている意味が、国内の米軍基地の縮小についての問題提起だとすれば、正論という感じはするが、党内でも混乱はあるだろう。
朝からの雨が、みぞれ、雪混じりに。最高気温が上がらない寒い一日。そんな寒い日に長野県飯田市へ。
2009.2.26(木)
(月)(火)(水)と走るのを休んでしまった。これ以上続けて休むと、筋肉が弱ってしまう。最初から、長く走るつもりはなかった。5キロを軽く走ったが、なんとなく、足が重い。筋肉が弱っているからだろうか。
読売テレビ「ミヤネ屋」出演。先週はお休みだったので、2週間ぶり。移動の新幹線の座席は富士山側でなかった。パソコン相手に仕事もどきをやっているうちに、気がついたら、静岡駅を通過していた。富士山を見損なった。曇りで、どうせいい姿は見られなかったはずというのは、悔し紛れか。
「ミヤネ屋」では、冒頭から、結構長い時間をかけて、石原真理子と玉置浩二の「復縁」の話題。梅沢冨美男さんが、しきりに、「自分の場合は・・・」というのが面白かった。この話題は、一種の美談というか、明るいニュースではないだろうか。お二人の前途に、幸多かれと祈るばかりである。
2009.2.25(水)
久しぶりの休日のはずだったが、直前に、日程がいくつか入ってきてしまった。その中に、永田町で早朝8時からの会合でのミニ講演というのがあったので、大事な時期の走りができなったのが、残念であった。
会合後、東神奈川にとって返して、神奈川警察署に赴き、免許証の更新。前回更新からの5年間、一度も運転することはなかった。そもそも、自動車を保有していない。持つ気もない。無事故、無違反だから、「優良ドライバー」に分類される。簡単な視力検査の後、30分間のビデオを視聴することが義務付けられている。事故の恐ろしさ、後部座席シートベルトの大事さを教えられた。タクシー利用の際には、後部シートベルトを着用することにしているのだが、その際、運転手さんに「ご協力ありがとうございます」と言われる。「自分のために着用しているのだから、ありがとうと言われることではないのです」と言い返すことがある。
2時と3時にアポイントがあって、再び都心にでかけていく。SUICAの使用が高い一日だった。
2009.2.24(火)
東京マラソンが気になるが、日程の厳しさもあり、今日の走りはパスすることにした。
山形県寒河江市での法人会の新春講演会へ。生まれて初めて、山形から寒河江まで左沢線に乗る。これが「あてらざわ線」と読める人は、地元以外では少ないだろう。別名「フルーツライン」。残念ながら、さくらんぼの季節には早くて、フルーツにはありつけなかった。
毎度のことながら、受付、前座、講演、お見送りとやって、ほんの短い時間だったが、懇親会にもご一緒できた。17:31の寒河江駅発の左沢線に乗るのに、17:27まで会場にいて、事務局をあわてさせたが、無事、列車には間に合った。そういうことも含めて、楽しい山形行きだった。寒河江法人会の会長さんは、佐藤繊維の社長さん。1月20日のアメリカ合衆国のオバマ大統領就任式の時に、ミシェル夫人が着ていたカーデガンの糸をニナ・リッチに提供したのが、この佐藤繊維だったということを事前に認識していたので、佐藤社長にお会いして、いの一番にそのことを申し上げた。「おくりびと」のロケ地は、山形県酒田市。このところ、山形県の話題が国際的に飛び回っている。
2009.2.23(月)
朝から雨。いくつかの用事を済ますために、仙台へ。たまたま、八木功さんの訃報が入って、弔問をさせていただいた。15年前の宮城県知事選挙で、宮城県副知事から候補者に押し上げられて、私と戦うことになった。その後、仙台空港ビル社長を経て、仙台空港アクセス鉄道の社長に就任。アクセス鉄道の開通を成し遂げた頃に、病に倒れた。71歳での逝去は、早過ぎるが、最後まできっちりと仕事を続けた人生と言える。ご冥福を心からお祈りしたい。
「おくりびと」が、アカデミー賞の外国語作品賞を受賞。評判が高い映画だったのに、見る機会を逃していた。ぜひ、見に行きたい。短編アニメ賞の受賞とともに、日本映画の水準の高さを率直に喜ぶべきだろう。暗いニュース、うんざりする政局などが続いているが、そんな中での明るい話題である。