浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記 11月第3週分          

2010.11.20(土)

 夕方、妻がいるところに田野崎医師が現れて、意義ある説明をしていただいた。まず、「神経ブロック療法」は承知しているし、がんセンターでも実施している例があるが、浅野の膀胱炎の痛みを抑える効果は限定的である。いくつか問題点もある(内容忘れた)し、少なくとも、今神経ブロック療法をすることは勧められない。緩和ケアとしては、他の方法もあるので、状況を見て緩和ケアの利用はあり得る。ただ、血尿が出ていないとか、痛みも軽減されつつあることから、そこまでやる状況ではない。その前に治るだろう。フェンタニル(痛み止め麻薬)の注入は量を減らす。痛み止めの使用で痛みが収まっているのか、膀胱炎が治りつつあることでそうなのか、見分けがつかなくなるのは困る。今のところ、フェンタニルの使用量は少ないが、ずっと使っていると、次に痛み止めをしなければならない状況では、使用量をかなり増やさなければならなくなることも考慮する必要がある。

 ということで、今の治療を継続していくのがいいだろうし、それで治ると思うというのが田野崎医師の結論。こういうことを詳しく、わかりやすく説明されると、田野崎医師の指示に従っていればいいという気になってくるし、先生から「これなら、もうすぐ治るでしょう」との言葉を聞くと、ほっとして、先の展望が見えてくる。来週の時点で、導尿管を抜くことになるだろう。

 膀胱、尿道付近にチクチクという痛みがあるが、痛みというよりは違和感に近い、導尿していれば、誰しも経験する範囲内の違和感だろうと思う。この程度なら、麻薬の痛み止めを使わなくともしのげるし、しのがなければならない。不安のあまり、安易に痛み止めに頼る傾向を払拭しよう。シャワーも難なくできているし、排便もある。今日は、一度、ある程度の排便があった後に、二回目、三回目と挑んでみたが、ほぼ空振りだった。妻に買ってきてもらったアイスもなかを食べた。おいしかった。今回の入院では、初めてのデザートである。寺島実郎さんから送られた白粥とお吸い物を夕食時に食べた。和光のものだけあって、上品な味である。寺島さんの心遣いが身にしみる。

 柳田法務大臣の「国会軽視発言」で、野党は大臣の首を取りにいくという。辞任に値する重大なことであるという認識であるが、そうだろうか。こんなことで、いちいち大臣の首を挿げ替えていたのでは、内閣として機能不全に陥る。笠にかかって追い討ちかけて、こぶしを振り上げている野党であるが、こんな言葉狩りのようなことで国会審議を遅らせることに、国民は心から納得しないだろうと思うが、「やれやれ、もっとやれ」という勢力が国民の一部にあることも事実である。仙谷官房長官の「自衛隊といった暴力装置」という表現を槍玉にあげて、これも問責決議だって。仙谷長官は、このことに関しては、陳謝なんてしなくていい。野党に甘く見られるほうが心配。


2010.11.19(金)

 今回はいつから入院していたか、日付を確かめようと思った。自分がこの日あたりでないかなと思った日の日記にその記述がない。おかしいな、俺、頭狂ったかなと一瞬心配した。私としては、1週間か10日入院している感覚だった。それが、まだ5日目とは。

 今できないこと:散歩(自粛)、腹筋(自粛)、売店に出て行くこと。取材対応(テレビ東京から田野崎医師に「誰か患者を紹介してください」という話があったらしく、田野崎医師から打診されたが、今の状態では、身体的につらいということより、闘病に関して前向きな姿勢ないという特殊事情なので、今回の取材はお断りした)、読書(新聞は読めるのだが、読書は途中でポヤンポヤンしてきて、続けて読み進められない)

 今できること:食事(下膳はやってもらっている)、シャワー、こうやってパソコンに向かうこと(気晴らしになることもあるが、逆に、坐り姿勢のせいか、痛みが襲うこともある)

 夕方、銀座クリニックの青木正美医師と電話で話した。都知事選の時には、一所懸命応援してくれて、にんにく注射を打ってもらい、元気を取り戻したこともあった。彼女がやっているのがペインクリニックだったことを思い出して、相談してみたのである。結論だけ言うと、痛みのコントロールはできる。神経ブロック療法といって、局所麻酔を行い、痛みを伝達する知覚神経や運動神経、交感神経の働きを抑制する。筋肉の緊張を解いて、患部の血行を良くすることで発痛物質を洗い流し、自然治癒力を正常に機能させて痛みの再発を防ぐ。やり方は、脊髄に注射をすることによる。脊髄穿刺と同じような形だが、それよりも浅いところでやる。脊髄穿刺は何度もやっているが、痛みはほとんどなかったので、これも安心材料である。がんセンターの麻酔科には、優秀な医師がたくさんいるので、そこで施術はできる。こうやって、親身になって相談に乗ってくれる知己を持っていることは、大事なことである。青木正美医師に感謝感謝。

 今日も一日、痛みなしで過ごした。これが何日か続けば展望が見えるのだが・・・。


2010.11.18(木)

 朝、大騒ぎで、田野崎医師の携帯に電話して、痛みを訴えるということまでやった。7時半ごろ、結構厳しい痛みがやってきて、それが去らない。「あー持たないな」という絶望的な気持ちだったのを思い出す。しかし、この嘆願に朝倉医師以下が答えてくれた。利尿剤を追加的に点滴し、生理食塩水の点滴のスピードを上げて、量的に増やす。フェンタニルはどんどん使う。こういった総合対策が効を奏したのだろう。痛みは収まった。朝食は、100%平らげたし、その時は痛みは収まっていたということだろう、と薄くなった記憶をたどっている。

 後は、寝ていることが多かった。午前中から昼寝である。夜は、6時半には床についた。たっぷりとした時間にたっぷりと寝た。現在飲んでいる薬。朝、ステロイドのプレドニゾロンを7.5mg(1錠半)、クラリッシド(抗細菌)朝、夕2錠ずつ、アシクロビル(抗ウイルス)1錠、リピトール(コレステロールを低下)1錠、ランソプラゾール(おなかの制酸)、1錠、プルゼニド(大腸の動きを活性化する下剤)ラシックス(下剤)1錠、マグミット(制酸・下剤)毎食後1錠ずつ。一日2回ブイフェンド(抗細菌?)3錠ずつ。痛み止めのフェンタニルは、適宜。これで痛みから逃れられているのだろうか。結構頻度高く使っている。朝と夕(歯磨きの時に)ステロイドであるキュービックの吸入。さらに、生理食塩水を4,000cc点滴で入れている。体重が56キロを超えた時は、利尿剤を注入する。

 朝の大騒ぎ以降は、痛みらしい痛みに襲われることのない一日であった。肉体的にはもちろんであるが、精神的にもとても楽である。平和の訪れ。

 便秘のほうが心配だったが、記憶では、この日の朝、待望の便通があった。「大は小を兼ねる」というお尻付近の筋肉の使い方がポイントである。つまり、小だけ止めて、大だけ出すというのは無理ということ。しかし、この無理が通った。便も通った。テクニックというか、意識の仕方として、便を出すための筋肉だけ使っていきむ。当初は、少しだけ排尿行動らしきものも出現するが、後ろの筋肉だけ意識し、いきみを続けることによって、痛みなく便通につながることを学んだ。欲張って、一日複数回の便通に挑んだが、全然出ないか、出ても申し訳程度の便しか出ない。これは仕方がない。


2010.11.17(水)

 今日も、膀胱炎のこと。導尿管による排尿が、管の状態によって詰まったり、細くなったりしない限りは、痛みを事前に回避することができることは、経験上学んだ。だから、詰まっていない限りは、痛みが長く続くことはない。

 この日記は、11月19日に書いているのだが、何があったのか覚えていない。前のような発作的な痛みの持続はなくなったが、時々痛みはやってくる一日。麻薬のフェンタニルを使うのはやめてみるとしたのが、17日だった気がする。免疫が下がっている、数値としては、IgGが391だった。正常下限は872で、400を切ると感染症が心配になる。ということで、免疫グロブリンを点滴で2時間かけて入れた。他人の血液(たんぱくは抜いている?)を入れるという意味では、輸血と変わりない。だから、点滴前には、同意書に署名をした。  そんなこんなで、前の日の阿鼻叫喚はなく、早い時間に寝てしまった。


2010.11.16(火)

 今日はドラマが二つあって、前半は愉快な喜劇、後半は悲惨な悲劇だった。  がんセンター18階の一号室にて、導尿管を入れたままの睡眠。4時ぐらいに一時覚醒しただろうか。気分爽快、単純にPain Freeである。当然ながら、頻尿に悩まされることもなかった。6時半ごろまで、まどろんだり、ちゃんと眠ったり。久しぶりの熟睡で、幸福感で一杯である。眠っている時に、ガバと起き上がって、寝ぼけた身体では「トイレに行かなくちゃ」という気になるが、覚醒した頭では「導尿管をつけているのだから、いつもの排尿はできないし、しようとしたら排尿痛だけがやってくる」と理解する。そうなると、残尿感、すっきりしない感が残る。導尿がいやがられる理由はこれだろう。私の場合、導尿のメリットのほうが大きいので、いやがることはないし、こういった残尿感にも慣れているということはある。

 朝起きて、動き出すことが怖かった。ベッドから1歩の洗面台の前に立ってすぐに、例の排尿運動を契機とした激痛が襲ってきた。やり過ごすしかない。時計を見ながら、痛みが薄らぐのを待ったが、この時は3分であった。その後、後で書く午後6時半以前に、2回の「発作」があったが、2分、3分で緩和された。発作の予兆が出た時に、深呼吸を繰り返したりして、これをやり過ごす場面も何度かあった。

 大問題が起きたのが、6時半頃から。いつもの「排尿時」の痛みが出てきた。上記のように、今日は2,3分で解消した痛みが、今回は去らない。自宅にいる妻への電話で、またまた泣き言。Touch Woodのことを思い出した。「良くなった、さらに良くなるはず」といった未来の予言は、神様の怒りを買う。今回の痛みには、そういう意味が含まれていたのだろう。本当に深刻に心配したし、なにより痛みが強いのが気になった。9時近くにやってきた山中幸乃看護師がこれを打開してくれた。管が詰まっているのではないかとチェックをして、腰のところでズボンによって管が詰まる要因になっていることを、いとも簡単に指摘した。そこを直し、ズボンをパジャマに履き替えるのも手伝ってもらった。朝倉医師にも来てもらって、詰まりの是正に加え、麻薬の一回量を増やすこと、生理食塩水の量を一日4000ccに増やすことの措置をとってもらった。なお、今日の経口摂取量は2,800.それもこれもあって、あれだけ危機感を持った痛みが去り、10時半ごろ、寝についた。なんたる一日だったのだろう。  


2010.11.15(月)

 昨夜から今朝にかけて、悲惨だった。前日の夜も分単位、秒単位の頻尿、加えて時々の排尿痛で、ほとんど眠れなかった。「ほとんど」でない時期には、少しは寝ていたのだろう。オムツからあふれるばかりの尿で、パジャマまで濡れたし、ベッドのシーツ、パッドも取り替えるほどであった。

 そんな経験があるので、「今日も大変だろうな」と思いつつ、戦々恐々として寝に就いた。寝るどころの騒ぎではない。分単位、秒単位の排尿である。間隔が短くなっているが、結構シャーシャーに近い感覚の尿の量なので、少量排尿時の痛みがあまり出なかった。それでも、これだけの頻尿である。3回ぐらい排尿があったところで、パッドを換えなければ、またお漏らしになってしまう。おかげで全然眠れず、部屋の中、部屋の外をぐるぐる歩きまわったが、こんな「おまじない」が効くはずがない。気を紛らわすためにネットを読んだのが2時ごろだったろうか。これも何の効果もない。4時過ぎだったか、今までにないほどの痛みがやってきて、「どうしよう、どうしよう」とベッドの中で独り言を声に出したりしたが、その後、妻に声をかけて、今の痛み、今後の不安感について泣き言を並べ立てた。こんな状態にいつまで耐えられるだろうか、「何ヶ月、何年もあり得る」という土曜日の電話での田野崎医師の言葉を思い出して、絶望感に襲われた。「地獄」という言葉も頭に浮かんだ。田野崎医師は、「命に関わるものではないから、心配はいらない」と先週の受診時に言っていたが、こちらとすれば、こんな状態が続いたら、発狂してしまうか、世をはかなんで身投げをするかもしれないのだから、「命に関わるのです」と反論したくなるほどの身体、精神状態だった。妻は「大丈夫、必ず治るから」と言ってくれるが、まずは、今の今の痛みをどうにかして欲しい。それでも、妻が泣き言の聞き役になってくれることは、とてもありがたい。実質的にもそのとおりで、「そうやって話しているうちに、あなたは豪快ないびきをかいて寝てしまったわよ」と妻が言うとおり、30分ぐらいはその時寝たのであろうか。起きたら、状態はだいぶ良くなっていた。

 外来受診の日だったので、タクシーで築地へ。そのタクシーの中でも、2回オムツへのお漏らしをした。お漏らしのすぐ後だから、尿は出づらい。採尿が心配だったが、なんとか50cc近く排尿できたのは、上出来。血尿状態だった。肺のCTを撮影し、田野崎医師の診察を受けた。検査結果については、CT所見をはじめ、他の指標は、クレアチニンの1,4以外、大きな問題はなし。田野崎医師からは、治療ということでは入院でできることはあまりないが、医療スタッフとして毎日の状態がきっちり把握できるし、導尿すれば、頻尿と排尿時の痛みはなくなるということで、入院を勧められた。入院すると、今朝のような光子の励ましが受けられなくなるので、私としてはちょっと逡巡したが、結局、入院ということになった。

 あてがわれた部屋は、前回入院時と同じ18階の1号室。窓からみえるレインボウ・ブリッジも同じ。看護師さんたちも顔なじみばかり。午後2時ごろ、その病室で導尿が朝倉医師の手で行われた。導尿管の挿入時の痛みは相当なものだったが、予想の範囲内ではあった。管の挿入直後にやってきたのが、激烈な痛みだった。予想の範囲外であるだけでなく、人生最高の痛さと表現できるほどのものだった。すぐに痛み止めの点滴を入れるし、フェンタニルという麻薬も入れるということだったが、その「すぐ」がなかなかやって来ない。その間だけでなく、痛み止めが効いてきて痛みが収まるまで(一体いつ、痛みが去ったのか、つまりはどれだけの時間痛みをこらえていたのか、今では覚えていない)ベッドの柵を握り締め、大声で痛い痛い、朝倉先生のウソつき(本人はいないところでだが、もちろん冗談)などとわめき続けたのは、しっかりと覚えている。痛み止めは本当に効くのだろうか、効かなかったら悲惨だなといってことも考えていた。結局のところ、これが効いて、痛みはウソのように雲散した。妻がいったん自宅に戻る時には、大声わめきの私だったから、彼女も心配していただろう。6時半ごろに病室に戻って来た時には、痛みで騒いではいない私を見て、安心したようである。

 夕食を食べて、その後、田野崎医師か、朝倉医師か病室に来られたのかどうか、これも今は思い出せない。来たような気はする。8時半ごろにベッドに横になった。ただ、麻薬を入れ続けなければならないので、前回の注入から10分後に注入のボタンを押す作業をすることを意識して、時計をにらみつつであった。しかし、NHKテレビをつけたままで、そのうちに熟睡モードに入ったらしい。


2010.11.14(日)

 毎日毎日、膀胱炎のことを書くのはこの日記を読む方にとっても、面白くないだろう。ということで、この日記、しばらくお休みさせていただく。


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