2010.12.31(金) 愛読者に感謝
2010年が終わる。この「ジョギング日記」も、今日で今年の分は終了する。今年一年の日記は、実態は「闘病日記」のようなものである。入院中に、掲載を中断したこともあった。「早く日記を再開して欲しい」といったリクエストや、同じような病気に罹患した人たちからの「日記を読んで勇気づけられた」というメールが、「夢らいん」を通じて多数届けられた。「夢らいん」への一日あたりアクセス数は、約250件である。そのすべてが日記を読んでいるのではないだろうが、相当の数の人たちに「ジョギング日記」を読んでいただいていることは想像できる。
人に会うことも、外で活動することもない日常なので、日記に書くことといったら、病気のことが中心になる。それと、読書の感想、政治を含む世の中の出来事についての評論のようなものをちょこちょこと。そんな内容の日記でも、読んでくださる方がいることは、ありがたいことである。「勇気づけられる」という方もいることを知り、この日記を書くことの意義を改めて教えられたような気がする。私のほうこそ、そういった声に接すると勇気づけられる。愛読者に感謝である。それを考えれば、来年も書き続けるしかない。引き続きご愛読いただければ、幸いである。
「六○○○度の愛」鹿島田真希著(新潮文庫)を読む。平凡な主婦が、ある日突然、家を出て長崎(6000度とは、長崎原爆のこと)に行く。そこで出会ったロシア人との混血の美青年と束の間の恋をする。主人公の女性は、自殺した兄への複雑な想いをなかなか断ち切れない。長崎で過ごした数日、その後は、やさしい夫が何も聞かずに受け入れてくれる元の家庭に帰っていく。ストーリーとしてはこれだけ。生と死、孤独について、主人公(又は作者)が饒舌に語るところが鼻につく。ストーリー性豊かな大河小説「未亡人の一年」を読んだばかりなので、ついつい比べてしまう。作者の力量は買うが、私にとっては、心に残る作品とは言えない。
口直しということではないが、この後、向田邦子の「父の詫び状」(文春文庫)を読んだ。著者のエッセイ第一作である。「向田邦子は、突然現れて、ほとんど名人である」と山本夏彦が評したとおり、しっとりとした中に、上質のユーモアを秘めた文章に感心する。前に読んだのは30年前。その時は、何箇所かで泣いたような記憶があるが、今回は別な形の感動である。こんな稀有の才能を持った作家、惜しい人を失ったという思いが、読み進めながら、何度も浮かんできた。
夜は、紅白歌合戦を見る。去年は、入院中だったので、この時間帯は、不貞寝をしていた。やはり、家族と一緒に見るのがいい。これが大晦日の日本人の過ごし方である。植村花菜が「トイレの神様」を8分以上かけて熱唱したのが印象に残った。
2010.12.30(木)
時の流れ 夜中に2回トイレに。その2回目が3時過ぎだったので、ラジオをつけてNHKの「ラジオ深夜便」を聴いた。今日の「にっぽんの歌 心の歌」は、年末特集ということで、昭和40年代の歌特集をやっていた。「夜明けのスキャット」(由紀さおり)、「函館の女」(北島三郎)、「君といつまでも」(加山雄三)、「真赤な太陽」(美空ひばり)、「伊勢崎町ブルース」(青江美奈)、「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)、「山谷ブルース」(岡林信康)、「世界は二人のために」(佐良直美)、「花の首飾り」(ザ・タイガース)、「圭子の夢は夜ひらく」(藤圭子)が流れてきて、ふだんなら途中で眠ってしまうのだが、最後まで、きっちり聴いてしまった。曲の合間には、「当時は、はがき7円、国鉄最小区間20円、ラーメン100円」といったことを言うぐらいで、アンカーがペチャペチャしゃべらないのもいい。2時からの「ロマンチックコンサート」も年末特集で、1950年代のポップスをやっていたようだが、これは聴き逃した。
邦楽にしても、洋楽にしても、昔の曲しか聴く気がしない。耳になじんでいるし、聴いていると、その曲が流れていた当時のことを思い出し、なつかしむ。曲がはやっていたのは、40年、50年も前であることに気がつき、改めて感慨を深くする。時の流れを感じる。これも年取ったということであろう。そういったことを感じるようになったことも含めて、"It's nice to be 60" である。
ジョン・アーヴィンの「未亡人の一年」上下を読んだ。「時の流れ」の哀しさ、いとおしさを感じさせる作品である。自動車事故で十代の息子二人を亡くした人妻マリアン(絶世の美女)が、23歳年下の16歳のエディとベッドの上で行為に耽っている現場を、マリアンの4歳の娘ルーシーに見られてしまう。エディはマリアンの夫で童話作家のテッド(女遊びが絶えない男)の助手として、夏休みの間だけ雇われていた。マリアンは、テッドと娘ルーシーを棄てて、家を出る。エディとの関係は、ひと夏だけのことに終わる。それからのルーシー(最初の結婚で夫を亡くす)、エディの歩む人生を克明に描き、最後は、37年ぶりに再会したマリアン(76歳)とエディ(53歳)が再び愛し合う関係に戻ったことを示唆して終わる。「人生の扉」は、年齢に関係なく開けることができる。"It's alright to be 70"ということを教えてくれる。
さすがジョン・アーヴィングと思わせる大河小説である。本の帯には、「『ガープの世界』を超えるアーヴィングの最高傑作!」とあるが、それも納得できる。人を愛すること、生きるとは何か、親子の愛憎といったことを深く考えさせる作品である。かといって、理屈っぽいものではない。時の流れの中で、変わっていくもの、変わらないもの。ストーリー展開の巧みさに乗せられてスイスイ読み進められる。前回読んだ「オウエンのために祈りを」では、キリスト教にどう立ち向かうかといったむずかしいテーマが横たわっていたが、「未亡人の日記」にはそういった重さはない。今年読んだ本の中では、間違いなくベスト3に入る作品として心に残る。
2010.12.29(水)
今年中は静かに 就寝後の夜中に、3回、4回トイレに行くのは変わりないが、それ以外は、どこも不具合はなく、毎日を過ごしている。一日3回の階段昇降も休まず続けている。少しは、筋肉がついてきたような気がする。少なくとも、階段を昇るのに、エッチラオッチラということはなくなり、サッサといけるようなったことは進歩である。相変わらずの自宅軟禁状態であるが、寒さの中、風邪やインフルエンザがはやっている娑婆に出ることに伴うリスクを考えれば、今の状況では仕方がない。1月6日の外来診察の機会に、「そろそろ、世の中に出てもいいでしょうか」と田野崎医師にお伺いを立ててから、次の段階に進むかどうかを決めたい。
小沢一郎さんの問題について、昨日、新しい動きがあった。記者会見で、「通常国会が開会された後、政倫審に出ます」と小沢さんが言明した。菅首相らは、「国会開会前に政倫審に出てもらうというのが党の決定である。党の決定に従わないなら、ご自分で出所進退を決めてもらう」と反論した。従わないなら、離党勧告、除名処分もありうるという強硬姿勢を示したと受け止められる。年内の動きは、これでおしまいだろう。結局、「小沢問題」は年を越してしまうことになった。私から見れば、ぐずぐずしているから、こんなことになるんだと不満が募る。この日記で何度も繰り返したが、決断は早く、実行は迅速にということは、「小沢問題」に限らず、トップのリーダーシップ発揮の必須の要素である。
2010.12.28(火)
「年末恒例」も時代が変われば 年末の28日というと、「御用納め」が頭に浮かぶ。私が厚生省に入省した昭和45年当時は、この言葉が使われていたが、その後、「仕事納め」に変わった。この日の仕事は、午前中で終える。その後、各課ごとにオードブルやお寿司などをとって、ビール、お酒を飲みながら、御用納めの「儀式」となる。いつの頃からか、こういった「儀式」はなくなったが、それにしても、あの時の費用はどこから出たのだろうか。
霞ヶ関の役所にとっては、年末は予算編成の季節である。40年前、私の入省当時は、予算編成時期には、職場は一種の戦場、見方によってはお祭りの場と化す。大蔵省内示に始まって、課長復活、局長復活、次官復活、大臣折衝と進んでいく。その節目には、党(=自民党)の政務調査会の社会労働部会に状況報告に赴く。議員からの「俺たちも復活に努力するから、お前らもがんばれ」といったことで、この報告会は終わる。族議員という言葉は、今や、死語になりつつあるが、こういった議員たちが、族議員として厚生省予算の確保のための応援団として活躍した(ことになっている)。
省内各課は、差し入れを持って、予算確保のお願いや、情報収集のために訪れる各種団体、地方自治体関係者への応対に追われる。一方、予算復活のための作業もしなければならないが、復活内示は深夜になることが多く、担当職員は泊りがけになる。この時期に、各省に貸し布団業者から大量の布団が運び込まれる風景は、季節の風物詩のようなものだった。
今思い起こせば、何たる空騒ぎだったのだろう。予算内示の前には、ごく少ない重要項目は別だが、「これは局長折衝で復活させる」といったシナリオは決まっている。大部分の職員をはじめ、そのことを知っている人は知っているのだが、知らない人にとっては、ここががんばりどころと走らされることになる。ほとんどすべての経過は、このシナリオに沿った茶番劇であるのだが。
知事になってからの私は、攻守ところを変えて、各省に陳情、お願いに赴く立場であった。国の予算編成では、基本的には、各県ごとの予算割り振りはやらないので、予算編成時期に陳情することの意味はない。陳情の意味があるのは、予算執行の際の「箇所付け」の段階である。補助金の配分が、各県の各事業ごとに決められるのが「箇所付け」である。時期としては、年度当初の4月、5月ごろが正念場となる。予算編成時期に、各省に知事が顔を出すのは、後の「箇所付け」に備えて、わが県の「熱心さ度合い」を示すという意味あいもある。年末の予算編成時期には、地元選出の国会議員の方々に集まっていただいて、知事として予算確保にご支援をいただくという場も設定されていた。ほとんど意味のないことだし、費用もかかるので、私が知事になって何年目かには、そういった場を設けることはやめた。
年末になると、そんなこと、こんなことが思い出される。今では、まったく状況は変わって、なんとも静かな予算編成劇になった。昔のあんな予算編成劇が許されたのは、時代の余裕だったのだろうか、関係者みんなを巻き込んで予算を組んでいることを見せ付けるための演出だったのだろうか。
2010.12.27(月)
本年最後の外来受診 築地の国立がん研究センター中央病院で外来受診。今年最後の受診となる。今日の検査結果は、肝機能の値が正常上限を超えているのはこれまでと変わらないが、それ以外は胸のレントゲンを含めて、異常なし。気になっていた炎症反応を表すCRPは0.04(正常上限0.1)、腎臓機能を表すクレアチニンは1.1(正常上限と同じ)といずれも正常で、ホッとした。ホッとしたのは、クレアチニンが正常値なので、点滴を受けなくていいからである。年末の最後の外来で、2時間も点滴につながれるのは、あまりハッピーではない。田野崎医師に、今年一杯本当にお世話になったことを謝し、いい年をお迎えいただくように申し上げて、診察室をあとにした。来年からは、外来診察日が木曜日に変わるので、次の外来は1月6日となる。年末、年始の10日間、田野崎医師に会えない。「なにかあったら、いつでも連絡ください」と言ってくださる。「なにかあったら」とは考えたくないが、正月も待機態勢でいる田野崎医師の存在は、患者としてとしては、この上もなくもありがたいものである。田野崎先生、来年もよろしくお願いします。
「今年を振り返って」といった番組が、どのチャンネルからも流れてくる時期である。テレビを見ていると、あんなこともあったんだなあ、こんなこともあったのかと、記憶がリセットされる思いがする。個人的には、この一年、病気との闘いだけだったので、出来事として回顧するようなことは特にない。出血性膀胱炎で大変だったことなど、苦しい局面は思い出したくもない。そんな一年だった。
2010.12.26(日)
年賀状 2011年の年賀状に一言、二言、書き添えるのに午前中一杯かかった。年賀状の投函締め切りは25日だが、これは「25日までに出せば、元日に確実に届けます」ということであって、今日出す分には、問題なしである。私の年賀状は、ご無沙汰している方々に、近況をお知らせするという趣旨のものであり、結構字数が多くなる。これを我が家のプリンターで印刷する。宛名は、「筆まめ」のソフトを使ってリストを作り、それをもとに印刷する。去年は、この時期入院中だったので、リストのチェックをしただけで、コメントは書かなかった。今年は、自宅にいるので、何人かの人には、下手な字で一言書き添える余裕があった。
一年に一回、年賀状をいただくだけという関係の方がいる。私とすれば、その方々が、今、どうしていらっしゃるか、知りたいという気持ちがある。そういう方からの年賀状が、「謹賀新年 今年もよろしくお願いします」といったことだけだと、ちょっとがっかりする。年賀状なんて、そんなもんだと言われればそれまでだが、年に一回、消息を伝える機会なのに、その人にとっても、もったいないなという気がする。それはともあれ、来年の元日には、どなたから、どんな年賀状が届くか、今から楽しみである。今は、年賀の挨拶も、電子メールで済んでしまうのかもしれないが、やはり、年賀状を手にするのとは、ありがたみが違う。電子メールがいかに広がろうとも、年賀状交換というこの素晴らしい習慣は、いつまでも続いていくものと信じたい。
大好きな駅伝。今日は、全日本高校駅伝がNHKで放送されており、手に汗を握りながら全編見ていた。仙台育英学園が、女子3位、男子4位と健闘したので、応援のしがいがあったというもの。思い起こせば、私が宮城県知事になった1993年には、男女とも仙台育英学園が優勝。冷害や県政の不祥事など、宮城県にとってはいいことがなかったこの年の最後に、ビッグニュースが飛び込んできた。そんなことを思い出しながら、若きランナーたちの走りを眺めていた。
以前のジョギング日記はこちらから
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