浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記 5月第2週分          

2011.5.14(土)

寺島実郎氏の提言   

 毎日毎日、たくさんの郵便物が届けられる。最近は、「何とかメール便」という郵便とは違う形で配達されるものもあり、これも含めると、相当の量となる。ついつい、開封するのが後回しということになるが、3,4日でたまりにたまってしまう。今日は、その整理をしたが、冊子のたぐいが多く、いちいち読んでいると、あっという間に時間が経ってしまう。後で読もうと思って脇に置いておいても、経験上、絶対に読まない。ただただ、たまっていくだけである。だから、届いたその時に、読む、ナナメ読みする、捨てると即座に判断して、読んだものは、よほどのことでもない限り、保存はしない。そういったやり方でいかないと、我が狭い書斎(もどき)は、冊子や資料の山となる。

 こういった情報に加えて、電子メールで届けられる情報が膨大である。これも取捨選択が大事。メールは、返信を期待しているものが多いので、そういったものには、なるべく速やかに返信する。これも、結構大変だが、「あとで」とすると、結局は、困ってしまい、混乱するのは、当方である。これで世の中とつながっており、最新の情報も入手できるのだから、怨嗟の声を発しているのではない。あえて言えば、うれしい悲鳴。

 そういった膨大な情報の中で、我が友、寺島実郎氏から送られてきた論稿が目に留まった。複数の媒体に、いろいろな形で寄稿しているものの中から、彼の原子力発電所立地、エネルギー政策に関する見解が興味深い。今回の福島での原発事故の経験をしっかり総括することも含めて、日本が原子力の安全性を確立する技術と知識を蓄積し、誇り高い専門家を育成していかなければ、今後、エネルギー問題について国際社会の中での発言権も交渉力も確保できなくなることを憂えている。

 今後のエネルギー政策について、原子力発電に関する寺島氏の姿勢は、推進派でも反対派でもない、エネルギーの「ベストミックス」(最適混在)を志向する中で原子力を位置づけるというものという見解は、一応理解できる。それとは別に、国際原子力機関(IAEA)、米欧、ロシアの専門家で国際的な戦略チームをつくり、原発事故にすいての日本の対応の実態などを多言語で適時的確に発信すべきだという提言は、傾聴に値する。今、すぐにでも、やるべきことである。つまりは、国際的な問題意識の中で、日本の置かれている立場をしっかりと見据えた対応が必要ということだろう。日本が原子力の安全性を確保する技術の知識を蓄積し、専門家を育てることの重要性も、中国、韓国、そして北朝鮮などの隣国が今後原子力発電所を増やしていく計画を持っているという事実を考えた時に、十分に納得できる。目の前の原発事故をどうするこうするも大事だが、原発の失敗の本質を直視して、地に足の着いた、未来を展望する姿勢が大事であることを思い知らされた。


2011.5.13(金)

大議論はいいとしても    

 13日の金曜日は、平均で1年に2回弱あるが、今年は、今月だけ。ちなみに来年は3回ある。13日の金曜日は不吉なことが起こると言われるが、その手の話はまったく信じない。仏滅、さんりんぼうも同様である。何かをやるのに、その日を避けていたら、大事なタイミングを逃してしまう。ついでになるかどうか、言ってしまえば、「血液型占い」というのはまったく信じていない。「あーら、私は典型的なB型なの」といって、自分の性格を血液型と結びつける人がいるが、話のきっかけとしては好都合かもしれないが、それだけのことである。私は骨髄移植でB型からドナーさんの血液型(ドナーの特定につながるおそれがあるので書かない)に変わったが、それで性格が変わった形跡はない。性格は、兄弟姉妹の何番目で育ったかということのほうが、より大きな決定要因である。別に、ここで大議論を展開するつもりはないが。

 大議論といえば、今日の新聞には、政策決定について、大議論が展開されている。社会保障改革の厚生労働省案が公表されたが、実は、こちらは大議論は先延ばしされている。民主党内での議論がまとまらず、厚生労働省案が出されるにあたっては、民主党幹部から待ったがかかり、制度別改革案も財政試算も封印されてしまった。原発事故を巡る東京電力への政府支援策に対しては、与党である民主党内で反対意見が噴出している。電気料金の引き上げは認められない、東京電力の負担に上限を設けるべきだという理由である。野党相手の論戦の前に、政権が与党対応に四苦八苦している。「政策協働論」の授業で取り上げる格好の材料である。議論が盛り上がるのは悪くはないとしても、ものごとが決まらなかったり、混乱だけを残す結果になるのは、いただけない。


2011.5.12(木)

病友との出会い    

 2週間に一回の国立がん研究センター中央病院での外来診察の日。雨模様の中を築地へ。今日は、高速道路が空いていて、Door to Doorで37分。これは新記録ではないか。診察のほうも、あまり待たずに済んだ。

 その待ち時間の中で、同病の方お二人とお会いした。血液のがんの中でも、ATLは少数派に属するのだが、お二人ともATLであり、待合室でATL三人一緒というのは珍しい出会いである。Yさんは、静岡県富士市から通っている。「今月で古希70歳になったから、医療費が安くなる」と言いながら、やはり2週間に一回の外来を続けている。東大医科研での入院治療を経て、がんセンターの田野崎医師の下で骨髄移植を受けたのは、私と同様である。骨髄移植を受けたのは、私より数ヶ月早い。GVHDで筋肉の痛みがあり、肝機能も悪いようだが、見た目はお元気で、同じ病友として、7歳年長の女性の元気な姿は励みになる。

 もう一人のYさんは、娘さんから骨髄移植を受けたが、HLAの型が完全には合致していないためもあって、移植後7年経った現在でも、口内炎などのGVHDに苦しんでいる。彼女も60代とお見受けしたが、口内炎は外からはわからないので、お元気そうではあった。ウイルスの潜伏期間が50年から60年以上というATLは、発症が高齢になることが多い。今日の3人も60歳超である。この年で、白血病になり、骨髄移植を受けて、回復してがんばっているのだから、大したものである。と、自分自身も含めて、自画自賛。今月の22日(日)に、横浜の神奈川県総合医療会館で「ウイルスと白血病―白血病克服に向けて」というシンポジウムがあるので、お二人をお誘いした。ATLに特化して、広く論じるシンポで、私も講演するし、田野崎医師はディスカッションに参加する。ATL、HTLV-1ウイルスについては、一般にもあまり知られていないので、広く知ってもらういい機会であると思う。

 診察のほうであるが、検査結果は大変いいものであり、もちろん異常なし。田野崎医師からは、「安心です。このままでいってもらうといいです。せっかくここまで風邪やインフルエンザに罹らないできたのだから、これからも罹らないように最大限の注意をしましょう」と言われた。そのとおりである。大学復帰を果たしたばかりの今が、とても大事な時期である。油断せず、慎重に、活動を進めていきたい。


2011.5.11(水)

授業再開余話   

 「昨日は、朝から夕方まで、慣れない授業やってたのだから、今日は一日ゆっくりしてなさい」という家族の声がある中で、ついつい、昨日の第一回授業で提出してもらった選抜用紙の記述を丹念に読み進めて、日中を過ごしてしまった。「ついつい」と書いたが、学生がどんなことを考えているのか、記述を読んでいると、それがわかるので、ついつい興味が尽きずに、やめられなくなったということである。来週は、どんな授業をしようかなというプランも浮かんできて、そのための作業もやったりして、「ゆっくりしてなさい」とは反する一日を過ごしてしまった。

 昨日のことだが、キャンパスには、卒業生の峯岸宗弘君が勤務の休暇をとって待っていてくれた。思い起こせば、2006年の春、生まれて初めての授業の際に、いろいろと手伝ってもらったところから、峯岸君との付き合いが始まった。授業のSA(Student Assistant)をずっと務めてもらった。私のパソコンでネット環境を整備するのにも、ずいぶん助けてもらった。峯岸君は、私が入院する前々日、「これから病気の治療に入ります。次回は休講です。病気を治して、必ずここに帰ってきます」と言いながら終えた最後の授業の様子をハイビジョンカメラで撮影しており、そのDVDを持参していた。改めてその画面を見て、当時の悲壮な決意表明を思い出した。峯岸君が、夕方、キャンパスを出発するところを送ってくれて、「教授、今日でお酒を解禁します」と言う。私の病気全快、大学への復帰を、私と一緒に戦ってくれた。その形が、禁酒宣言だったのだが、それもこの日までという、彼の解禁宣言である。ありがたい、うれしいことである。

 授業では、SAの神野翔君と田中謙伍君が、資料の配布やら、学生からの提出用紙の収集など、よく手伝ってくれた。神野君は、入学直後から私と関わることになった。やる気満々で、学生生活を最大限有意義に過ごすべく、実践派として大活躍の姿を、私も感心しつつ眺めていた。彼も私の復帰を心待ちにしていた一人である。「必ず帰ってくるという約束を守ってくれてうれしいです」と言いながら、早速に私の手伝いをしてくれた。私の研究室の隣組である竹中平蔵さんが、早速声をかけてくださった。「なんでもお手伝いしますから、ご遠慮なく」という暖かい言葉である。神野君は、竹中さんの授業のSAも務めている。こうやって、私の授業復帰に多くの人たちが、いろいろと支援してくださっている。この日は、妻が秘書役としてついてきてくれた。研究室の掃除など、雑用をこなしながら。ほんとのところ、ちゃんと授業が務まるか、心配で仕方がなかったのだろう。そんなに心配してくれる妻や家族の支援あっての、授業復帰であることも、心に刻んでいる。みんなみんな、ありがとう。


2011.5.10(火)

復帰第一歩の授業を無事に終えて   

 朝、9時半に家を出て、慶応大学SFCへ。密着取材のTBSの大原さんが、タクシーに同乗して、キャンパスに着くまで車内取材。キャンパスに着くと、今度は、NHKも待っていて、そこから密着取材。再開初の授業は、「政策協働論」で、使用教室の定員が196名なのに、履修者として仮登録をしている学生が277名。どうなることかと教室に出向いたが、立ち見も出ていた。授業が終わってみれば、予定調和的に、授業を最後まで聴いて、履修希望のペーパーを提出したのは212名と、いい数字に落ち着いた。希望者全員受け容れということを即座に決めた。全員が、毎回、授業に出席することになると、席が足りない。「この授業は、先着196名分しか席はないぞ」と授業の終わりに言ったが、これで学生は早めに教室に来てくれるかどうか。

 授業そのものは、実は、不安の中で始まったのだが、何とか90分を無事に終えることができた。最後の15分は、学生が履修希望のペーパーを書く時間に宛てたので、実質は75分間のパフォーマンスだった。感染予防で、マスクをしながらの授業だったが、声の調子は万全だったので、聴く側の支障にはなっていないだろう。熱心に授業を受けている学生の熱意に押されて、疲れも知らずに授業を終えることができた。疲れを感じたのは、授業が終わってからであった。

 これが2次限目で、4次限目には、「地方分権と福祉政策」の研究会(ゼミ)に再登場。こちらは、30名ほどの出席者で、履修希望者は全員受け容れることになる。今日の第一回では、障害者問題に関する私の思いを、自分の職業生活をたどりつつ、語り尽くしたという感じである。話しているうちに、あれも言おう、これも触れておこうと、話がどんどん発展していく。学生はついてきているだろうかということも、あまり気にせず、しゃべりまくった90分。次の回の授業からは、毎回、ゲストを呼んで話をさせるので、私が自分のことを語る機会は、あまりなくなる。それを第一回で、思いっきりやってしまったということである。さすがに疲れたが、快い、満足のいく疲れであった。

 一応は、再開復帰の第一歩を踏み出したという実感を胸にして、夕刻、雨のキャンパスを後にした。ご苦労さんと、自分に言っている。多くの人から、メールや電話で、復帰を祝福するメッセージをいただいた。ありがとうございます。なんとか、ここまでたどりつきましたと報告させていただく。


2011.5.9(月)

明日は再開初授業    

 今日の日記なのに、こんなタイトル変だなと思いつつ、予告編的に書いてしまった。「明日に備える」というほどでもないが、今日は一日、何も予定なしにゆったり過ごそうと思っていたが、結構、日程がいろいろ入っている。

 午前中、ラジオNIKKEIの番組収録。自宅に橋本明子さんに来ていただいての収録である。橋本さんからは、事前に、ご著書「翔べ!白血病の息子よ」をお送りいただいており、メールも何回か交換していたので、初対面のあいさつが不思議なほどであった。息子さんが白血病になり、橋本さんは骨髄バンクの設立に奔走する。その運動の成果として骨髄バンクはできたが、息子さんには間に合わなかった。それ以後も、血液がんの患者、家族の相談への対応や医療費助成のための基金の設立にも力を尽くし、現在は、NPO法人「血液情報ひろば・つばさ」の理事長として活躍中である。骨髄バンクがあって、ドナーがみつかり、私の命が救われた。その命の恩人との対談、お会いできることを楽しみにしていた。聞き出し上手に乗せられて、わが闘病記のようなことを、番組2回分、たっぷり1時間話をさせていただいた。骨髄バンク設立運動の時からの「戦友」という東海大学の加藤俊一君も同席してくれた。とても充実した時間を過ごせたのがうれしい。

 いよいよ明日、大学復帰で再開第一回の授業である。明日も現地で取材をするTBS「朝ズバ」の大原博司さんが、事前取材に自宅にやってきた。ぐちゃぐちゃの狭い書斎で、パソコンに向かっているところのインタビュー。明日の復帰への思いなどを語った。


2011.5.8(日)

食べることも人生だ    

 5月の第二日曜日は母の日。仙台の実母は90歳、同居の義母は88歳、どちらも元気である。歩けるし、動けるし、頭もはっきりしている。耳は今の私同様に遠いが、目も口もしっかりしている。それぞれ持病があり、定期的に病院を受診しているが、一病息災、特に異常はない。特にプレゼントを贈ったりしていないが、この元気さが子どもにとっては、どれだけ安心か。感謝の気持ちだけは、しっかり伝えないといけない。

 「喋々喃々(ちょうちょうなんなん)」小川糸著(ポプラ文庫)を読む。喋々喃々とは、男女が楽しげに小声で語り合うさま。東京・谷中でアンティークきもの店「ひめまつ屋」を営む26歳の栞(しおり)と、家族のいる春一郎との「許されぬ恋」がストーリーの中心であるが、個性あるお店が点在する根津・谷中のまち、季節の移り変わりを実感させる情緒あふれる路地の家並み、神社、仏閣、昔ながらのお祭り、そして何よりも、随所に登場するおいしいものが主役の物語である。同じ作者の「食堂かたつむり」もお料理が主役のとてもいい小説だったが、それがデビュー作で、「喋々喃々」は第二作である。一つ一つのお料理を、自分が作るものも、お店で供されるものも、作り方からお皿を出すタイミングまで、丁寧に丁寧に描いているので、自分も一緒に食べている気になる。こういうお料理を、一つ一つ食べるのも人生の過ごし方だと思うと、私は十分に人生を楽しんでこなかったのではないかと思い当たった。小説としての出来が素晴らしいかどうかはわからない。日常生活の、たとえば「食べること」といったなんということもないことの積み重ねが人生なんだということを、それほど深刻でなく示してくれる小説である。栞と春一郎の、淡い、ゆるやかな、それでいて切ない恋も、なかなかよかったことをつけ加えたい。


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