2011.5.21(土)
プロ野球「観戦」の土曜日 いつもより1時間遅れで、7時半に離床の土曜日。パソコンの前に陣取り、なんやかやしているうちに、時間が過ぎる。14時になると、今度は、テレビの前に陣取り、スカパーでプロ野球中継、楽天対ヤクルトを食い入るように見る。家族と一緒に、やいやい言いながら見るのは、楽しいものである。
その試合だが、新人で、私が目をつけている塩見貴洋が先発して、交代までヤクルトの強力打線を無得点に抑える好投。いい仕事をした。1点リードで9回に登板したサンチェが相変わらずの制球難で、同点にされる。我が家の観客席からは、「こんなのを出すなんて、星野監督も焼きが回ったんじゃないの」とブーイングの連発。その裏に、今シーズン初出場の大廣翔治が、二塁打で鉄平を迎え入れて、楽天のサヨナラ勝ち。我が家の観客席は興奮のきわみである。大廣は楽天生え抜きの7年目、4年ぶりのヒット、初めてのサヨナラ打であった。こんな選手、「観客席」の誰も知らなかったが、よくやった。あんたはえらい。
2011.5.20(金) 民主党内の変な動き
朝、6時15分から25分まで、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」に電話出演。ひと月に一回ぐらいのペースになるだろうか。今朝は、やはり、大震災関連のコメント。昨日の朝日新聞の「耕論」について生島さんに振られたので、被災地の自治体では、ゼロベースになったのを「利用して」、新しい自治の姿を住民と一緒に築いていってはどうかといったことをしゃべった。いつものことながら、時間がなくて、十分に思いを伝えられない。時間がないのは、当初からわかっていることだから、それに合わせて話すのが、良きコメンテーターである。まだまだ、修行が足りない。今朝の放送を聴いたという人が何人かメールを送ってきた。こんな時間にラジオを聴いているのは、私だけじゃないんだ。
そのメールであるが、昨日と今日、大学復帰の報告メールを送ったが、それに対する返信という形で、数多くいただいた。多くの人が、見守っていてくださるのを、そんなことから知ることになるが、ありがたいことである。
西岡武夫参議院議長が、読売新聞に「菅首相は、即刻退陣すべきである」といった論文を寄稿し、記者会見でも同じことを話している。この人、おかしい。とても、おかしい。なぜおかしいかなんてことは、言うまでもないだろう。あまりに馬鹿馬鹿しくて、論評する価値もない。馬鹿馬鹿しいですまないのは、民主党内での菅おろしの動きである。原発事故への対応が悪いからだってさ。しきりに、小沢一郎氏がそう言っている。大震災や原発事故で、国民の間には不安が広がっている。そういう不安心理は、誰かを非難することによって、うっぷん晴らしをする方向に向かう。菅首相の手腕がそんなに劣っているかどうかなどお構いなしで、「アンタが悪い、なんとかしろ、できないなら辞めろ」という気持ちに向かうのだろう。そんな風潮に乗っかって、与党から「菅おろし」が出るとは、政治的な小児現象である。こんな人たちが、多くいるような党に、未来はない。
2011.5.19(木) みなさん、ありがとう
からっと晴れて、いかにも5月らしい気持ちのいい日だったが、一日中家にこもっていた。安全第一で、散歩はまだ自粛している。体調はまったく正常だが、はしか予防接種の反応が出ないことを確認するまでは、おとなしくしている。もうそろそろ、自粛を解除してもいい頃だろうとは思う。
家にこもって何をしていたかと言えば、今回の大学復帰を果たした報告と御礼のメールを出していた。137人に送信したが、闘病中は、それだけの方々から、励まし、応援のメールをいただいたということである。そのメールにどれだけ勇気をもらったか。これからも、見守っていただきたい。そして、またお会いしたい。そんな思いをメールに託した。
今朝の朝日新聞の「耕論」に、「3.11復興・考」ということで、他の3人の論者と並んで、私も登場した。原真人編集委員の聞き書きで構成されている。原さんは、平成5年、私が宮城県知事になりたての頃に、仙台支局に赴任していた。私の最初の選挙や、県庁の裏金づくり「食糧費問題」などを精力的に取材しており、「聞き書き」での取材では、昔話に花が咲いた。記事に添えられている私の写真は、「近影」であるので、髪の毛が少ない状態である。頭髪の完全復興までは、まだ時間がかかりそう。
2011.5.18(水)
一歩目から二歩目はどうする
朝食後、「ノルマ」のお茶2杯を飲み、薬を3錠+粉ぐすり1包を服用。念入りに歯磨きをすれば、朝の「ノルマ」は終わる。今日は、その後すぐに、書斎の机に座り、来週の「政策協働論」の授業のレジュメ作成にとりかかった。そんなに急いでやらなくていいのだけれど、ついついやりたくなってしまう。授業に復帰できたうれしさが、そうさせる。
前回の授業の出席カードの記述を読んで、「前回の誤字・誤解」のリストを作る。「講議→講義」のまちがいが、前々回の27名から4名に減った。私の名前が、「朝野」だったり、「四郎」、「史朗」というのもあって、苦笑する。次回の授業は、情報公開についてであり、講義の展開を頭に浮かべながら、レジュメを作る。こんな作業が、楽しい。
ということで、授業再開は、順調に推移している。これが第一歩だが、二歩目はどうするか。今日も、電話でテレビ番組への出演依頼があったが、まだスタジオに行けないので、お断りをした。会合への出席依頼もいくつかあるが、基本的に、すべてお断りしている。「基本的に」と書いたのは、22日(日)のシンポジウムには、出席して、講演をする予定だから。「ウイルスと白血病―白血病克服に向けて」というシンポジウムが、22日(日)14時から神奈川県医療会館の7階ホールで開催され、そこで私が「患者になってわかったこと、患者じゃないとわからないこと」という題で、40分の講演をする。多くの人にATLのこと、HTLV−1ウイルスのことを知ってもらうために活動することは、自分の義務と受け止めていること、高校の同級生であり、私の病気の第二主治医としての支援もしてくれている加藤俊一君からのお誘いであること、会場が自宅から近いこと、こういった「特殊事情」により、例外的に出席としたものである。
2011.5.17(火) 友あり、遠方より来る
再開して、2回目の授業の日である。2時限の「政策協働論」は、196名定員の教室に丁度いいぐらいの出席者である。結局、185名が出席。熱心な受講態度に満足しながら、講義を展開した。聴くほうも、話すほうも、調子に乗ってきたようである。4時限の「地方分権と福祉政策」の研究会には、長崎から田島良昭氏をゲストで招いた。田島氏の話は、やや抽象的な意識改革論から入ったが、もうちょっと今までの自分が関わってきた経験談を含めて、血湧き肉踊る具体的な話をしたらいいのにと思いつつ、聴いていた。学生の感想文を読んだら、抽象的な話の部分も印象に残ったようなので、なるほどと思った次第。ゲストそれぞれ、自分なりのやりようがあるものだと再認識。
授業終了後は、田島氏を我が家にお誘いした。昔話や福祉の話、そして私の闘病に関する話題に花が咲いた。闘病中、田島氏は「浅野史郎さんを支援する会」を作ってもらい、いろいろな支援をしてもらった。骨髄バンクへの登録者を募る運動は、目覚しい成果をあげたことも、忘れられない。「病気から完全に回復したら、あれもやって欲しい、これもやるべきだ」とハッパをかけられた。それにしても、こうやって長年の友人と語り合う場を持つことは、久しぶりである。とても素敵な宵であった。
2011.5.16(月) こんな病友も
散歩に出ることもせず、「かいかい」を我慢しつつ、2000ccの水分摂取をまじめにこなし、30分の昼寝もとりまぜ、自宅で安静に、心静かに過ごす一日である。はしかの予防接種をしてもらった時に、医科研の大野医師から「接種して10日目ぐらいに熱が出たり、はしか症状が現われる可能性があります」と注意されていたが、今日が10日目である。じっとなりを潜めて、そんな症状が出ないように気を遣っていた。明日はSFCでの2回目の授業であるし、熱など出していられない。幸いに、「10日目のはしか症状」は出ないまま、乗り切ったようである。
小樽市在住のUさん夫妻と電話で長話をした。「HTLV-1ウイルスをなくす会」の菅付佳代子会長から紹介された。奥様(68歳)がATLを発症して、2008年8月に骨髄移植を受け、9月末に退院、すぐに海外旅行にでかけたという話にびっくり。仕事にもすぐ復帰して、その後も毎年のように海外旅行に行っている。主治医が「具合悪くなったら、戻ってくればいいんだから、どんどん旅行にでもなんでも出かけたらいい」というらしい。滅菌とはほど遠い生活で、生ものでも何でも食べて、人ごみでもどこへでも出かけている。「浅野さんも、あまり制限せずに、何でもやったらいいんだ。小樽に遊びにいらっしゃい、泊めてやるから」とはご主人の言葉。ATLを克服できたので、これから北海道のATL患者の相談を受ける活動をしたいということで、菅付さんとコンタクトをとったらしい。こういう方も含め、いろいろな病友がいらっしゃる。
2011.5.15(日) かゆい、かゆい
ATL治療のために骨髄移植を受けてから約1年半。昨年は、GVHDが肺に出て、二度の入院を経験し、おまけにアデノウイルスの活性化による膀胱炎での入院もあった。今年になってからは、身体状況は安定しており、外来受診での検査結果はすべて正常である。痛くも、かゆくもないと言いたいところだが、かゆいところはある。
顔と頭、首のあたりと両腕に、ポッチンという発疹が散在している。たぶん、GVHDだろうと思うのだが、田野崎医師も確たることはわからないという。これがかゆい。かくと、なおさらかゆくなるので、かくのは厳禁である。夜は、無意識にかいてしまうのを防ぐために、頭には帽子をかぶり、手袋をして寝ている。就寝前には、ステロイドを含んだ塗り薬を患部に塗ってもらうのに妻の手を借りる。こんな発疹が出ていて、いいことはないのだが、あえていいこと探しをやってみた。
田野崎医師にも言われたが、発疹があることで、まだ病気が残っていることを自他共に知らせる効果がある。自分はもちろんだが、他人も発疹を見て、「浅野の病気は、まだ気をつけなくてはいけないんだな」ということをわかってくれる。二番目のいいことは、かきたいのをかかないでいるということで、克己心(ここでは「かっきしん」と読む)が鍛えられる。三番目のいいことは、塗り薬を塗ってもらい、妻とのスキンシップの機会を持てること。そんなことを思いながら、治るのを気長に待つ。
朋あり、近きから来る。知事時代に秘書をやってもらった菅原久吉さんと山内伸介さんが来訪。今春の人事異動で、二人がそれぞれ宮城県東京事務所の所長、副所長に就任したので、そのごあいさつということであった。大震災の影響で、山内さんの副所長赴任は、一ヶ月遅れて、今月1日。二人とも、赴任前は震災対応で県庁での大変な仕事ぶりであったらしい。仙台にいた頃は、彼らもサンデーマラソンクラブのメンバーとして、毎週日曜日に一緒に走った。知事時代には、出張先で早朝に一緒に走ることが通例だった。私は病後で散歩がせいぜい、菅原さんは心臓に難アリで、医師から走るのを禁じられている。今でも走れるのは、山内さんだけだが、いずれは三人で一緒に走る機会を持ちたいものである。
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