浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記 5月第4&5週分          

2011.5.31(火)

永田町の常識は、世の中の非常識   

 慶応大学SFCでの授業。2時限の「政策協働論」の講義から。「一人称で語る政治学」ということで、自分の体験、体験から得られた考え方を実例をかなりたくさん紹介しながら講義を進める。前回の情報公開の内容で補足すべきところがあり、授業の前半では、それに時間を取った。後半が今日のテーマである「官僚制とマネジメント」。ここの部分は、私自身の官僚としての体験をリアルに描きつつ、官僚制と何か、政治との関わりはどうかという論に持っていく。そのつもりが、時間切れで、政治との関わりの部分は、次回に補足することになる。ついついエピソード紹介、別名脱線部分に時間をかけてしまい、肝心のところが時間切れになる。エピソードの紹介は、わかりやすいというか、興味深いということで、学生には悪い評判ではないのだが、ここはやっぱり程度問題だろう。本論をきっちりと論じなければならない。

 午後からの4時限のゲストは、武田牧子さん。精神障害者との自らの関わりを、実例を示しつつ、わかりやすく論じてくれた。聴講する学生のほうは、精神障害者の問題には、まったく疎い状態であるので、驚きであると同時に、情報量の多さについていけないところも見受けられた。それにしても、現場を知っている人の話は迫力がある。学生も、知的好奇心と感情を強く刺激されたことだろう。

 夜のニュースで、自民・公明両党が、明日、菅内閣の不信任決議案を提出する構えだということを報道していた。被災地の人たちは、国会内のこういった動きをどういう目で見ているか、少しでも真面目に考えたことがあるのだろうか。急流で馬を乗り換えようという事態なのだが、乗り換える馬は準備されているのか。そういったこともなしで、菅辞めろ、内閣不信任だと騒ぎ立てる政治的センスは、国民から選ばれた政治家としては、失格である。野党が不信任案を出そうというのは、ある程度は理解できる。しかし、与党は別である。与党の中で、不信任案に賛成する議員がいるのは、どういうふうに理解すればいいのだろう。常識感覚では、まったくもって、理解不能である。マスコミ論調も、批判、非難の声で一致している。永田町の常識と世の中の常識が、これだけ乖離しているのは、珍しい。珍しいと言ってるだけでは、済まされないのだが。  


2011.5.30(月)

片山善博総務大臣   

 午前中、いつまた降ってくるかわからない天気の中、折り畳み傘を手に持って、7分+7分の散歩へ。雨は免れたが、風が強い。いつもより、人通りが少なめの県道沿いの歩道を歩いていると、何人か年配の男性と行き合う。「年配の」というのは、私と同じぐらいの年齢ということだが、こんな時間に歩いているということは、仕事をしている人ではないだろう。私も、彼らからはそう見えているのだろうか。私は、目的のある散歩をしているから、一応、元気溌剌のつもりだが、若者が見たら、「定年で行くとこのないおやじ」そのものかもしれない。

 昼に片山善博総務大臣と電話で話をした。片山さんが鳥取県知事、私が宮城県知事だった時代には、話が合い、気も合う仲間として親しい間柄だった。同じく親しかった増田寛也前岩手県知事に続いての、民間からの大臣である。別件で電話したのだが、2年前に入院してから初めてになるので、ついつい話題がいろいろ広がった。奥様を悪性リンパ腫で2年前に亡くしており、闘病のこと、看病のこと、聞かせてもらった。血液のがんということでは、私のATLと同じだが、悪性リンパ腫の中でも、抗がん剤が効きにくい種類の病態だったらしい。奥様の看病も大変だったと思う。「大臣業も大変でしょ」と水を向けたら、そうでもないようだ。政権運営の初心者のようなところがある現政権にとって、官僚組織と政治家との関係を良く知る片山さんの存在は貴重である。そんな閣内にあって、彼にしかできない貢献をしていること、頼もしく思いつつも、やはり大変だなと同情もする。お互いに、もう少し落ち着いたら、ゆっくり食事でもしながら、語り尽くしたい。


2011.5.29(日)

雨の日は原稿書き   

 今日も、一日中雨降りである。5月の梅雨入りというのは、冗談かと思っていたが、お天道様は本気だったんだ。ひたむきに、空から雨を降らせている。外に出られない。散歩も、当然、できない。だからというわけではないが、「年金時代」7月号の「新言語学序説」の原稿を書いてしまった。締め切りは、来月10日だから、早過ぎる脱稿である。

 この連載も、長く続いたもんだ。宮城県知事時代の2000年10月号から始まった連載だが、媒体が「年金と住宅」から「年金時代」に変わり、また、病気入院中の2年間は休載したが、この7月号で通算106回目である。2007年2月に、「許される嘘 許されない嘘〜アサノ知事の『ことば白書』」(講談社)という単行本にまとめられたが、その後もまだ連載は続いた。「言葉について」がテーマだが、自分でもよくネタが尽きないものだと思う。

 午後からは、プロ野球中継をBS1で観戦。楽天対阪神。小学生の頃から、熱狂的な阪神タイガースのファンであった私である。2005年に楽天イーグルスが本拠地を仙台として発足してからは、タイガースに加えて、楽天イーグルスの大ファンになった。応援するのは、セリーグは阪神、パ・リーグは楽天と使い分けるつもりだった。しかし、この年から、セパ交流戦というのが始まって、楽天対阪神の試合が宮城スタジアムで行われ、応援に行った時に気がついた。自分でも驚いたが、楽天を応援する気持ちが100に対して、阪神へは0であった。「打て、打て、金本!」と応援していたのが、「打つな、打つな、金本」になってしまっている。阪神ファンの皆様には、裏切り行為のように思えるだろうから、気が引けるのだが、交流戦なんてことをやるから、こういうことになる。今日は、その金本に逆転2ランホームランを打たれて、楽天が1対2で負け。あーあ。


2011.5.28(土)

思い出の「追悼集」が戻ってきた   

 関東地方は、昨日梅雨入りしたらしいが、今日の横浜は朝から雨降りである。3日続いた散歩は、今日は中止。この分では、明日も明後日もダメだろう。それにしても、ずいぶん早い梅雨入りだこと。  旧知の堀利和さんから、著書が送られてきた。「共生社会論」、副題に「障がい者が解く『共生の遺伝子』説」とある。かなり理屈っぽい部分と、自らの人生遍歴を語る生々しい部分、短い詩、短編小説まで「共生」している面白い本である。視覚障害者として初めての国会議員を務め、その後、4年間の「冬眠」を経て、起き上がってすぐに短期間で書き上げた力作である。障がい者を社会の中の存在として、どう考えるか、人間存在の根源的なところまで遡って考える視点を提供している。私のことも「尊敬すべき官僚との出会い」というところで紹介されているので、特にそのあたりは興味深く読んだ。

 ぶどう社の市毛研一郎さんからは、なんと1989年4月28日の出版パーティーのビデオが、今日、送られてきた。「豊かな福祉社会への助走」という、私の初めての著書はぶどう社から出版したのだが、それを記念してのパーティーには、障害福祉関係の仲間300人以上が集まった。それ以来、人と人とのネットワークを広げる、この種のパーティー大好き人間となってしまった。その後のパーティーの世話役は、毎回、佐藤進さん(前埼玉県立大学学長)だった。

 一番印象に残るパーティーは、「浅野課長の四十九日の法要」である。私が厚生省の障害福祉課長を1年9ヶ月務めて辞める(人事異動)ことになった時に、本人以上に打ちひしがれた姿を見せていたのが佐藤進君だった。私は逆に励ます立場、「そんなら、異動をイベントにしてしまおう」と私が企画したのが、異動後49日目のパーティーである。葬儀委員長は、佐藤進氏。特別ゲストは、故人(私のこと)である。後任の障害福祉課長には、就任49日目にして、仕事上の関係者をまるごと紹介し、引き継ぐ機会にもなった。パーティーの引き出物は「追悼集」。追悼集への寄稿は有料、同人誌形式である。「法要には香典がつきものだろ」との理屈づけ。それでも、70人の仲間が「追悼文」を寄稿してくれた。「出会い、語らい、明日への助走〜障害福祉への熱き想い」という副題がついたその遺稿集は、私にとって宝物なのだが、それが私の手元になくなってしまった。そこで、先日、「市毛さん、在庫ないかな」と電話したら、最後の一冊を送ってくれたのである。再読して、障害福祉の仕事に燃えていた25年前の「青春の輝き」が戻ってきた。さらに、市毛さんが、出版パーティーのビデオがあることを思い出して、今日、送ってくれたという次第。とてもうれしいのだが、我が家には、ビデオ再生の機械がない。どうしよう。


2011.5.27(金)

空騒ぎはどっち   

 曇り空で、涼しい。早めの梅雨入りを思わせるような天気が続いている。まるで、五月らしくない。そんな天気の中を、散歩7分+7分。指に心拍と血中酸素濃度を計る計器をつけて歩いてみた。酸素濃度は98%を保ち、安静時と変わらぬ値を示していた。心拍数は、最大120/分まで上がったが、これも運動強度からいって、正常である。ジョギングに移行したら、これが150/分ぐらいまで上がるだろうが、まだまだジョギングに移行できる状態ではない。もう少し、慣らし運転を続ける。

 午後から、毎日新聞の取材。「大震災後、日本はどうなる」という、はなはだむずかしい内容である。自分の闘病中の経験を引用しながら、なんとか対応したが、難儀である。これをまとめる記者さんは、もっと難儀するだろう。

 原発事故に関して、発生翌日の海水注入の中断を誰がどう指示したのか、菅首相や斑目原子力安全委員長を巻き込んでの、言った言わない、聞いていない、「空気を読んだ」という議論が国会でも展開された。そして、昨日になって、原発の現地での最高責任者である吉田所長が「実は、海水注入の中断はしなかった」と報告があり、「なんだ今頃まで、そのことを隠していたのか、けしからん」という批判の声が湧き起こっている。

 確かに「けしからん」、東電の本社と現場との意思疎通が図られていないと、お粗末な状況を糾弾するのも、わからないではない。マスコミ論調も、「開いた口がふさがらない」、「耳を疑った」、「あきれるばかり」と厳しい言葉が続く。しかし、もうちょっと落ち着いて、冷静に考えてみようではないか。大火事が発生し、その直後の消火にあたっている時は、まさに火事場の大騒ぎである。現場で消火の第一線に当たる者としては、外からの指示も聞こえないし、聞こえても、現場の目で見たものとしての判断で、ともかくも、目の前で燃え盛る火を消すことに全身全霊を賭けている。そして、忘れてはならないのは、火事はまだ鎮火しておらず、現場では、今現在も必死の作業が続けられているということである。「出火直後の一番大変な時期、火事場の大騒ぎになっている時期を振り返って、何がどうあったのか、記憶をよみがえらせて、必死に思い出し、そのことを明確に報告しなさい」ということを、要求しているのである。必死に消火作業を続けている責任者に、そんな要求は酷ではないだろうか。

 その責任者である吉田所長への評価は高い。経験も豊富だし、責任感も強い人と言われている。「あの人でなければ、被害はもっと深刻だったろう」とも言われている。今回の「報告遅れ」、「本社の指示無視」で吉田所長への処分も検討されているという。燃え盛る炎を消すのに命がけで挑んでいる人を国会なり、官邸なりに呼び出して叱責するのですか。それをやるとしても、今、この時期にやることは、決して賢明な判断とは言えない。「やってられないよ、そんなら辞めてやる」と、責任を投げ出す人とは思えないが、仮に、今、吉田所長に辞められたり、体調を崩して現場を離れざるを得なくなったら、それこそ、日本の安全にとっての大きな危機である。

 こういった混乱をもたらしたのも、菅首相のせいだ、だからお前は辞めろ。そんな声が野党からだけでなく、与党からも、参議院議長からも聞こえてくる。今辞められたら、原発事故対応も、一から出直し、大混乱になる。「今は、絶対に投げ出すなよ。全力を挙げて国難に取り組めよ」とこそ、叫ぶべきではないのか。そろそろ、政治的小児状態から抜け出して、冷静に対応するべき時期である。


2011.5.26(木)

風疹だってさ    

 5月にしては珍しい、肌寒い朝、築地のがんセンターへ。検査結果は異常なし、田野崎医師からは、「いい調子です」という言葉をもらった。同じATLの治療を東大医科研→田野崎医師という同じルートで受けている病友の南克己さんと待合の廊下で会う。この前の日曜日、シンポジウムの会場で会ったばかり。南さんは、グアムに遊びに行ってきたばかりとのこと。元気そうで何より。お互いに、順調な回復ぶりを確認し合い、励まし合う。南さんは、月に一度の外来受診なので、次にここで会うのは一ヵ月後となる。

 「異常なし」ではあるのだが、風疹の抗体反応が出ているのが気になった。田野崎医師によれば、これは風疹に罹患したことを表しているとのこと。そういえば、夕方に37℃に体温が上がるのが3日続いたことがあった。発疹も、風疹によるものだったのだろうか。それにしても、どこで風疹をもらったのだろう。ふうしんぎだ。


2011.5.25(水)

授業準備も楽しいもんだ    

 今日の「活動」は、大学での授業の準備である。書斎のパソコンを相手にしているだけなので、身体を動かす活動ではない。次回の授業のレジュメの作成作業であるが、今日だけで完了した。レジュメが大変なのは、毎回、授業終了後に学生から提出される「出席カード」の記述を読んで、「前回の誤字」、「前回の質問」を作成するからである。質問のほうはともかく、誤字までレジュメに載せられるのは、学生にとっては、親切の押し売りだろう。それを知りつつ、あえて小さな親切、大きなお世話を続ける私。誤字があったのは、その前の授業の時の18人から大幅に減って、4人だけ。前回の質問に対しては、6人分だけ答を書いて、残りは、次回の授業の中で答えることにした。

 大変なのは、宿題のペーパーを読むこと。今回は、「情報公開についての実例をあげて、それへの論評」という結構むずかしいものである。授業内容を先取りした、予習としての題材なので、まだ講義を受けていない内容について論じることになる。どの程度書けているか、興味津々で読み進めた。期待以上に出来がいい。特に、いい出来の24人は、実名をレジュメに書いた。ほめることなのだから、こういう情報公開は許されるだろう。宿題のペーパーを漫然と読むのではなく、「優秀作品」を選び出すのだから、作業的には結構大変である。自分で課した私の宿題のようなものであるが、実は、その作業が楽しくもある。  来週の授業は、「官僚制とマネジメント」である。「一人称で語る政治学」というコンセプトで講義をしているが、官僚を23年やり、知事として役人を使う仕事を12年経験した私の体験も盛りこんで熱く語る。そのレジュメを作成した。

 午後から、実に久しぶりに散歩に出た。5分+5分のかわいいものだが、3週間の自粛期間を置いての再開だから、まずはこんなところから。日は出ているが暑くはない。爽やかな風が吹き過ぎる中を歩く気分は、悪くない。これだけで、生きてるっていいなと思ってしまう。シアワセなんて、案外簡単に感じられるものである。


2011.5.24(火)

感動のゲスト講師    

 朝からかなり強い雨。その雨の中を慶応大学SFCへ。今日が3回目の授業となる。「政策協働論」の授業では、情報公開を扱ったが、どうも、まだ調子が出ない。言葉が出てこない場面もあったり、数字の記憶が飛んでしまったり。全体としては、それほどの支障はないのだが、時々、ひっかかる。午後からの「地方分権と福祉政策」の研究会(ゼミ)には、日浦美智江さんをゲストにお迎えした。学生にご紹介して、登壇いただいたが、講師が冒頭で涙ぐんだようになるのは、先週のゲスト、田島良昭さんと同様である。二人とも、長い間の友人、同志であり、私の闘病中もなにかと支援していただいた。私が復帰して、この場にあるということに感激して、言葉に詰まるという状況になった。それを見て、私のほうも感激である。

 日浦さんの講義は、学生に大きな感動を与えたようである。講義が終わったところで、私がマイクを向けて、「感想を」と促した男子学生は、「今までSFCで受けた授業の中で、一番感動しました」と答えた。「今までの授業は、俺の授業も含めて、あまり感動する授業ではなかったんだな」とまぜっかえしたが、確かに、それだけの感動を与える講義であった。横浜市栄区桂台にある「朋」は、重症心身障害の人たちが通ってくる施設で、日浦さんは、ここを運営する社会福祉法人の理事長を最近まで務めていた。「朋」に自主的に見学に行く学生を募ったら、4人が手を上げた。この4人は、朋に行って帰ってきたら、人生を見る目、人間を見る目が、大きく変わるだろう。実は、そんなことを期待しているのが、この研究会である。


2011.5.23(月)

大谷貴子さん    

 昨日のシンポジウムの会場でお会いした大谷貴子さんから、その場でご著書をいただいた。「決断 命の一滴=コミック版 プロジェクトX 挑戦者たち」と「生きてるってシアワセ!」の2冊である。大谷さんは、25年前に慢性骨髄性白血病を発病し、ギリギリのところで、母親とHLAの型が一致することがわかって、骨髄移植を受け、白血病から回復した。自身の経験もあるが、周りでドナーがみつからずに命を落とす同病の患者たちを見て、骨髄バンク設立運動にのめりこんでいく。そんな過程を扱った本である。「ご著書」と書いたが、前者はコミックで、その著者は本(もと)そういちさん。この方の絵がとてもいい。コミックなので、昨日寝る前にあっという間に読んでしまった。「読んだ」というより、「見た」ということなのかも。後者は、大谷さんが以前に書いたものを10年後に改訂版として出したもの。2008年にテレビ東京でドラマ化された。そのドラマにも出演している東ちづるさんは、大谷さんとの運動仲間であることを知った。巻末に二人の対談が収載されている。

 骨髄バンクが設立されるまでに、このようなドラマがあったことを知る。バンクができるのに間に合わずに、亡くなっていく患者さんたち。バンクがあったおかげでドナーがみつかり、白血病からの回復を果たす患者さん。そのかげには、退院してすぐに始まる大谷さんの東奔西走、獅子奮迅の活動があった。HLAがぴったり一致するドナーがみつかり、骨髄移植を受けて、社会復帰まで果たすことができた患者(私のこと)としては、37万人の登録者にまで育った骨髄バンクの存在は、「間に合ってよかった」というものである。大谷さんたちの尽力によって、生かされている命を実感する。

 私が昭和45年に厚生省に入省し、公衆衛生局防疫課に配属されたが、隣の検疫課長を務めていた大谷藤郎さんは、貴子さんのおじさんである。医務局長で退官後も、らい予防法の廃止に尽力するなど、ハンセン病問題解決に大きな力を発揮した。私の尊敬する医系技官である。昨年、電話でお話する機会があったが、それからしばらくした12月に、ご逝去された。そういったご縁もあり、大谷貴子さんにお会いできるのを心待ちにしていたが、昨日のシンポジウムでそれが実現した。「転んでもただでは起きない」という精神で病気になったことを受け止めていること、何でも笑いの種にしてしまう茶目っ気など、私との共通点もありそうな方である。同志としての活動ができる日も近い。


2011.5.22(日)

シンポジウムの開催    

 「ウイルスと白血病〜白血病克服に向けて」というシンポジウムが、神奈川県総合医療会館で開催され、「記念講演」をやらせていただいた。「ウイルスによる白血病」といえば、ATLのことであるが、同時に、HTLV-1ウイルスによる疾病であるHAMも視野に入れてのシンポジウムである。会場は、ざっと150名ぐらいの参加者だろうか。車椅子でおいでの方が10人以上、HAMの患者さんだろう。私の講演は、中身40分。闘病日記のようなものだが、患者としての気持ちを率直に語らせてもらった。時々は笑いもとるような話しぶりに、「これが浅野節というものですね」と、講演を終わってから何人かの方に言われてしまった。田野崎医師もパネラーとしておいでいただいており、「浅野さんのまとまった話を初めて聴きました」と話していらした。

 メールや電話では連絡取り合っていたが、今回初めてという方にも何人か会うことができて、私にとっては、とてもいい機会だった。今日のシンポジウムは、患者さん本人など、この問題に関心がある方々が主に参加しただろうと推察するが、本当は、一般の方に来ていただきたかった。まだまだ知られていないATLのこと、HTLV-1ウイルスのこと、一般の方々に理解してもらうのが、今、一番大事だからである。それでも、こういった機会を持つことは、大いに意義がある。これからも、体調を見ながら、協力させてもらいたいとは思っている。

 シンポジウムには、「仙台二高東京一八会」のメンバーも10人以上参加していた。仙台二高同級生の加藤俊一君が、そもそも、このシンポジウムの仕掛け人で、一八会メンバーにも声がけをしてくれた。東京一八会に私の出番を作ってくれたことになる。シンポジウム終了後、近くのお店での会合が持たれ、私と妻も、最初のところだけ参加した。最初のところだけにしても、この種の会合に出るのは、二年ぶりのことである。一八会のメンバーに加えて、3年先輩の押味和夫さんなど、先輩、後輩も何人か特別参加していた。押味さんは、ATL問題の権威であり、現在はアメリカ在住。シンポジウムでは講演を務めてくれた。35回生の一戸辰夫さんも、ATL治療の専門家で、今日のもう一人の講演者。今年京都大学から佐賀大学に移ったばかりだが、京大時代の患者さんの中に、私の「病友」がいて、その人から「とても患者想いの先生」という評判を聞いていた。会いたかったいろいろな人に会うことができた、今日の一日であった。


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