2011.6.25(土)
のんびり土曜日 午前中は、大学の授業準備。そろそろ、試験の準備でもしておくかというノリで、試験問題づくりにとりかかった。試験は来月末であるから、時間の余裕は十分ある。その意味では、のんびりとやればいい。のんびりといかないのは、試験を受ける学生のほうである。80分の制限時間で完成するには、相当の腕力を必要とするほど、解答すべき量が多いのが、私の試験の特徴である。腕力とは文字通り腕の力のことで、試験を終えた学生からは、「腕が疲れて動かない」との感想が、毎回、寄せられる。パソコン以外、なんでも持ち込みありだし、事前にポイントを書き込んだペーパーを持ち込んで、それを参照して解答してもいい。これを「合法的カンニングペーパー」と称する。量は多いが、授業をきっちり受講して、毎回の宿題も提出している学生にとっては、容易な出題だと思う。
午後からは、プロ野球の楽天対西武戦をBS5で観戦。昨日は、最終回まで4対2で勝っていた試合を、最終回に抑えに出たスワイヤー投手が2本のホームランを打たれ、7対4と逆転負けで失った楽天。まことに後味の悪い負け方だった。今日の試合は、田中将大投手の素晴らしいピッチングと、いつも我が家のブーイングの的のルイーズ選手の活躍で、9対1と西武に快勝。これだけ点差があると、ハラハラどきどきはない。のんびりと観戦することができた。
夕方は、11分+11分02秒の散歩。歩くペースは、あいかわらず、のんびりとしたもの。あたりが暗くなるほどの曇天の下の散歩は、涼しくて楽である。
2011.6.24(金)
大野兼司さんの転勤
今日も暑い。梅雨の真っ只中とは思えない暑さである。埼玉県熊谷市では、39.8℃。6月としては、観測史上最高気温だそうだ。そんな中で、散歩は夕方になってから10分+10分。ゆっくりペースで歩くだけ。ゆっくり―速く―ゆっくり―速くを繰り返すインタバル歩きは、結構ストレスがかかる運動である。もう少し、身体が慣れてからにすべきだと反省し、ゆっくり歩きだけにしたのである。
昼過ぎに、NHKの大野兼司ディレクターが、転勤のあいさつに自宅にやってきた。福岡支局に月曜日に赴任するということで、あわただしい中をわざわざ来てくれた。彼は、私を取材対象にして、3本の企画を持っていた。一本は、5月1日(日)のETV特集で放送された「二人のチャレンジド」。厚生労働省(現在は内閣府)の村木厚子さんとの対談をまとめたもので、とてもいい番組で、見た人たちからは、とても評判がよかった。もう一本は、番組としては完成したが、放送はこれからである。内容、放送日も、まだ言えない。もう一本は、HTLV-1ウイルス問題についての企画。これは、大野さんが福岡に転勤後の仕事となる。この企画については、私の関わりは、ごく限定的になるだろう。大野さんの取材は、自宅、自宅周辺の散歩、花見、築地のがんセンター、慶応大学SFCなど、多方面にわたり、ずいぶん長い期間、濃厚に関わった。福岡に移っても、いい仕事をするだろう。期待している。
2011.6.23(木)
沖縄の慰霊の日に 築地のがんセンターでの外来受診の日。田野崎医師の診察の前に、放射線科の伊丹純医師の診察を受ける。毎回のことであるが、特別なことはなにもない。これも毎回の私からの訴えであるが、髪の毛がなかなか戻ってこないことを言うと、「ごめんなさいね。頭頂部は、放射線を集中して照射したから、なかなか毛が生えてこないんだよね」と応じる。「ごめんなさい」と謝られることでもない。この先生、声は大きいし、元気もので、なんとなく憎めない。次回の診察は9月。
田野崎医師のところでは、肝臓の値が少し高めであるが、特に心配するほどではないということだった。そのほかの検査結果も順調。プレドニンの服用が2.0mg/日から1.5mg/日に減らされた。「このぐらいだと、服用しないのと変わらないのだけれど・・・」と田野崎医師は言うが、服用を完全にやめるのも少し躊躇されるということなのだろう。私とすると、こうやってだんだん服用量が減っていくのに、「前進」の兆しを見るかの如くで、経過を楽しんでいるところがある。次回診察は、2週間後である。
今日は、沖縄の慰霊の日であり、沖縄県糸満市摩文仁の平和記念公園で菅首相も出席して追悼式が行われた。先の戦争で唯一本土での戦闘が展開されたのが沖縄であり、「人が人でなくなるような」過酷な戦闘により、20万以上の命が奪われた。当時の沖縄の人口の4人に1人が亡くなったのであり、いかに凄惨な戦いであったのかがわかる。
沖縄返還交渉の際の「密約」に関する「外務省機密文書漏洩事件」を扱った「運命の人」(1〜4)山崎豊子著(文春文庫)を丁度読み終えた。毎日新聞の敏腕記者が、「情を通じていた」外務審議官付きの女性事務官から秘密電報を入手した。本来、「知る権利」と報道のあり方をめぐっての大問題になるべきところが、いつの間にか、男と女の関係を取材に利用した薄汚い事件として扱われてしまい、西山記者は地位も名誉も失って、沖縄にたどりつく。国家機密と報道のあり方、日米の情報公開の大きな違いなどの面からも、とても興味深い。外務省の秘密主義も、ここまでくると、滑稽というしかない。最後の第4巻では、沖縄戦での悲惨な状況が詳細に書かれており、「ここまでひどいものだったのか」と頭を殴られたような気持ちで読み進んだ。今日が、その慰霊の日であるということに、不思議な符合を感じてしまった。
2011.6.22(水)
突然の暑さ到来 夏至の天気は、暦を忠実に守ろうとするかの如く、今年初めての夏日で、横浜の最高気温は31℃まで上がった。月曜日の散歩取材が雨のため延期となったが、TBSの大原ディレクターが「今日、散歩の取材どうでしょう」と朝方に訊いてきた。「ダメダメ、この暑さでは」と断ってしまった。突然の暑さに、身体がついていけない。断ったのは、正解だったろう。
暑い中、来週の授業のレジュメを完成。最近は、授業の翌日に、レジュメを完成させる習慣が定着した。真面目にやっているということで、ひそかに自分を褒めている。それにしても、暑い。
2011.6.21(火)
2年ぶりの「ととや亭」 慶応大学SFCでの授業、ワイシャツ姿で講義をするのだが、汗びっしょりになる。今日あたりは、気温は高いが爽やかな風がわたってきて、比較的涼しいのに、汗びっしょり。これが、本格的な夏が到来したら、どうなるのだろう。と思いつつも、熱心な学生相手に熱弁をふるう講義は、結構楽しい。
午後からの研究会には、滋賀県社会福祉事業団理事長の北岡賢剛さんをお招きした。彼とは、かれこれ20年以上の付き合いである。信楽青年寮を拠点にして、ユニークな障害福祉を展開していたが、今は、障害者の芸術の分野に熱心に取り組んでいる。今回の授業では、「アール・ブリュット」、フランス語で「自由な芸術」、について語ってもらった。本人が語る以上に、アウトサイダー(正式に美術について学んだことのない描き手)による作品の数々のほうが雄弁であった。知的障害、精神障害、自閉症などを持つアウトサイダーのユニークな作品に、学生たちは驚き、圧倒された。障害者と呼ばれ、生まれた時からお世話されることがあたりまえの人生を歩んできた人たちにも、「立つ瀬」は必要だという北岡さんの話に、目を開かされる思いもしたようだ。
北岡さんは、日本のアウトサイダーの作品をフランスのアールブリュット美術館に持ち込んで、館長に感嘆のため息をつかせた。彼女を日本に招聘し、日本の現場で多くのアウトサイダー芸術家に会ってもらい、作品を見てもらった。北岡さんの行動力と度胸にも、学生は感心しきりであった。今回の授業で、学生たちの障害者観が変わっただけでなく、芸術の見方も変わったはずである。北岡さんは、所用ができて、授業を終えてすぐに滋賀に引き返すことになり、今晩の居酒屋での飲み会の参加を取りやめてしまったのは、本当に残念だった。
その飲み会。病を得る前には、研究会が終わった後、月に1、2回湘南台駅近くの「ととや亭」で飲み会をやっていた。今回は、「Communication with Drink」と称して、学生を誘ったのだが、参加学生は8人で、思ったより少なかった。こういった、飲みながらの語らいが、研究会の醍醐味なのだが、復帰直後の今学期は、なかなか学生に声をかける根性がなかったが、思い切ってやってみたのである。2年ぶりの「ととや亭」では、親方が私の復帰を心から喜んでくださった。お店のマキさんから花束を贈呈され、うれしくも感激の場面であった。30分だけいて、学生を残して私は退散。2年ぶりの居酒屋、完全復帰は、もう少し先になる。
2011.6.20(月)
なつかしい北海道時代 TBSテレビ「朝ズバ」のディレクター大原博司さんが、散歩の場面を取材したいということで、昼過ぎに自宅にやってきた。あいにくと、雨が降ってきたので、散歩取材は延期となり、応接間での取材だけで、お帰りいただいた。大原さんは、昨年の夏から取材を続けている。私の闘病生活から復帰までを追い、そのVTRを使った番組を企画していた。そのうちに、大震災が起きて、番組の趣旨も、番組放送予定も変更を余儀なくされた。7月1日(金)の「朝ズバ」にゲストとして出演予定であるが、「病気回復、復帰おめでとう」というのではなく、大震災の復興関連での出演ということになるのだろう。いずれにしても、スタジオ出演は2年ぶりであり、テレビ画面を通じて、私の元気な回復ぶりをお見せする機会となる。
夕方になって、原稿を書いた。社会福祉法人古平(ふるびら)福祉会の30周年記念誌への寄稿である。この法人が運営する知的障害者施設「共働の家」は、26年前、私が北海道庁の福祉課長に赴任して、しばらくしてから訪問して、「こんな施設もあるのか」と目を開かされたところである。辻田十三夫施設長に案内されて見せていただいた、古平町内の水産加工事業所などで働いている知的障害者の元気な姿に感銘を受けた。当時の北海道の施設は、知的障害者を死ぬまでお預かりすることを使命と考えているところばかりだったので、共働の家の実践は、私にとって驚きであった。同業者からは、「法律違反だ」とか「障害者を無理やり働かせている」とか、ひがみ、やっかみとも思える声が聞こえてきたが、辻田さんは、意に介さず、知的障害者の地域移行に情熱を燃やしていた。地域で働く知的障害者は、生活センターと称する寮での生活を施設職員に支えられながら送っていたが、これがグループホームの原型であり、後に厚生省に戻って障害福祉課長として、グループホームの施策を予算化する時に、参考とさせていただいた。
こういったご縁があるので、一昨日、辻田十三夫さんから電話で原稿依頼があった時には、喜んでお受けするとお答えをした。なつかしさもある。何も知らない私に、障害福祉の仕事の意義を教えていただいたというご恩もある。北海道庁での2年間と、厚生省障害福祉課長としての1年9ヶ月で私の障害福祉の仕事は終わってしまったが、現在も、施設長として、障害福祉の仕事を続けている辻田さんがうらやましい。そんなことも、原稿に書かせてもらった。
2011.6.19(日)
父の日のワイン 昼前に散歩、12分+12分+3分。+3分とあるのは、散歩のついでに出すつもりの手紙を自宅に置いてきてしまい、郵便ポストまで出しに行ったから。散歩の途中で、ご近所の佐藤さんが散歩しているのと会った。いつものように、笑顔で「こんにちは」と声をかけてくる。99歳の佐藤さんが、背中をまっすぐにして歩く姿に、感心してしまう。理想の老後の過ごし方である。人生は勝ち負けではないが、99歳で元気な一人暮らしの佐藤さんは、まちがいなく、人生の勝利者である。
午後からは、楽天対阪神の試合をスカパーで見ていたが、楽天に、守りのミス、攻めのミスが続出で、あまりのふがいなさに、途中で見るのをやめてしまった。どんな負け試合でも、最後まで応援するのを信条としていたのだが、今日のような試合では勘弁してもらいたい。
夜の食卓では、娘とワイン。「父の日」の祝いに、娘が贈ってくれた赤ワインである。「子どもの頃は、さっぱり遊んでやらないで、父親らしいところなんかなかったのに」と妻にはうらみごとを言われるが、その娘は「父の日」をこうやって祝ってくれる。ありがたいことである。娘と一緒に飲むワインは、少量でも腹にジンとくる。司法修習で、この2ヶ月は麹町の某弁護士事務所で研修中。毎日、厳しいながらも、興味深い経験をさせてもらっているという娘の話を聞きながら、ワインを味わっていた。
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