浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記 8月第1週分          

2011.8.6(土)

なぜ原爆投下したのか    

 朝、6時半過ぎから散歩に出る。なんのかんので、ちゃんとした散歩は、4日ぶりである。岸根公園は広くて、静かで、緑が多い素敵な公園である。今朝は、この中で9分間歩いた。今日の公園内は、なぜか、お散歩おじ(い)さん、お散歩おば(あ)さんが多かった。小学生が自転車に乗っている。せみの声がうるさいほど。18分+17分45秒の歩きだった。復路のほうが速いのは、往路の岸根公園が長い上り坂になっているから。ここを上ると太ももの筋肉が鍛えられている気がする。

 今日から甲子園の全国高校野球大会が開幕。仙台七夕が今日から3日間開かれる。そして、広島で平和記念式典が開催された。それぞれについて、一言以上書きたいのだが、ここでは、66年前の8月6日、広島に原爆が投下されたことを書く。

 無辜の市民の命を無差別に奪う原爆を、アメリカは、なぜこの時期に投下したのだろうか。その一つの答えが、今日読み終わった「硫黄島の星条旗」J.ブラッドリー著(文春文庫)の中にある。米軍海兵隊の精鋭部隊7万人以上が投入され、艦隊800隻の海からの艦砲射撃、島の形が変わるほどの空からの爆撃で、米軍の予想では、せいぜい5日あれば落とせると思われていた硫黄島攻略。実際には、終わるまでに、36日間かかった。その間に、アメリカは25、851人の戦闘犠牲者を出し、そのうち約7000人が死んだ。太平洋戦争における米軍の最大級の犠牲者数である。

 この戦いに勝つには勝ったが、米側の犠牲の大きさに、戦争遂行者は大きな危機感を持つに至った。同じような戦いが、日本本土での決戦で繰り広げられたら、アメリカの犠牲はとてつもない数になるだろうとの恐怖感が支配したのは、容易に想像がつく。だから、原爆投下という禁断の武器を使うことに、ためらいがなくなったのではないか。「戦争を早く終わらせるために、原爆を使った」というのが、アメリカの言い分であるが、その深層心理には、硫黄島での戦いでの苦戦ぶりがあったはずである。もう、あの地獄の戦いを再現したくない。硫黄島での戦いは、米軍にとってそれだけの意味を持った。

 5月に読んだ「散るぞ悲しき」梯久美子著(新潮社)は、硫黄島を守る側の総指揮官・栗橋忠道(映画「硫黄島からの手紙」では渡辺謙が演じた)の壮絶な戦いぶりを日本側から描いたものである。これを読んでから、「硫黄島の星条旗」というアメリカ側からみた硫黄島での戦いの本があることを知り、今回読んでみたら、丁度今日、読み終えたということである。たまたま8月6日に読み終わったということから、硫黄島の戦いと原爆投下を結びつける発想が浮かんだ。それは真実ではないかもしれない。しかし、空軍将校への教育の中で、「核兵器の使用は聖戦としてのもの」と講義していたという報道を知ると、アメリカは、今でも、原爆投下に痛みを感じていないのではないかと疑ってしまう。硫黄島での戦いを再現したくなかったから原爆を投下したと考えることに、それほどの違和感を感じないのは、核兵器使用についての、アメリカの姿勢に共通すると思うからである。


2011.8.5(金)

ごちゃごちゃ政局    

 朝7時過ぎに散歩に出たが、陽射しが強い。あてがはずれた。ほんの7分で終了。いずれ再挑戦の構えだったが、日中は、突然強い降りの雨がやってきて、夕方は陽射しが強過ぎ。結局、そのまま散歩のタイミングを逃してしまった。日中は、自宅に籠りきりで、アイス食べたり、せんべいかじったりの間食で暇をつぶす。これで散歩なしでは、体重を増やすばかりの不健康生活になってしまう。心せねばならない。

 日本も、アメリカも、株価は大幅に下落。当局の為替介入にもかかわらず、円高はおさまらず、78円台。日本だけでなく、世界全体の経済がおかしくなっている。震災からの復興には、経済の回復は必須なのに、先行きは暗雲たちこめである。

 そんな中で、政局はごちゃごちゃ。子ども手当ての見直しの与野党協議はまとまったが、それぞれの党内に不協和音が聞かれる。特例公債法案は、すぐに成立するかどうか。経済産業省次官、資源エネルギー庁長官、原子力安全・保安院院長の「更迭」で、海江田万里経済産業大臣と菅首相との確執、鞘当てが取りざたされている。定例人事異動の前倒しに過ぎないようなものを、あえて「更迭」に海江田大臣がこだわるのも何か変。辞め時を逃した海江田氏、胸のうちは混乱状態なのかもしれない。以上、政局もごちゃごちゃだが、この文章もごちゃごちゃになってしまった。


2011.8.4(木)

一歳半のつもりで    

 2週間に一回の外来受診で、築地のがんセンターへ。田野崎医師のほかに、山田看護師が同席。山田さんは、一時、がんセンター勤務を休職して、大学で研究をしていた。研究の一環として、我々骨髄移植経験者から、その後の生活上の問題などについて、聞き取り調査をした。その結果が、ほぼまとまったということなので、いずれレポートをいただくことになった。他の患者は、移植後にどんな生活をしているのか、私としてもぜひ知りたいところである。

 肝心の診察結果であるが、異常なし。一時期悪かった肝臓の数字も正常に戻った。その他の検査結果も、すべて、順調な状態を示している。つまりは、今は安定しているということである。そのことを踏まえて、私のほうから、現在、注意すべきこと、行動制限すべきことなど、改めて訊ねてみた。「ふつうにしていていいです」というのが結論である。たとえば、公共交通機関も使っていい、旅行も構わない。とは言え、かぜなどひいてそれが引き金で免疫反応が起きて入院という心配がまったくないとは言い切れないとのこと。本当の意味で、「何をやってもいい」、「ふつうの人とまったく同じでいい」というのは、骨髄移植から5年過ぎた時だとも言われた。「先生、何やってもいいといっても、そのころ、私は67歳になってます。高齢者としての限界があるでしょう」と言い返したのは、冗談ではなくホンネである。

 食べ物で気をつけることを訊いたら、山田看護師が、とてもわかりやすく答えてくれた。「今は、1歳半だと思ってください。生まれてすぐの赤ちゃんは、食べ物でも何でも、とても気を遣って対応しますが、1歳半になれば、気をつけるにしても、それなりの気をつけ方でいいのです」。骨髄移植からほぼ1年半の今の私は、一歳半の幼児の気の遣い方が基本というのは、とてもわかりやすい。「風邪も、引かないに越したことはないけど、一回引いてみて、どの程度の大変さになるか、見ておくというのも、必要だとは思うのです」と、田野崎先生は言う。これも、1歳半の幼児にあてはめて聞くと、なるほど風邪で死ぬようなことは、ふつうはないよなと、納得する話である。5歳になれば、何やってもいいのだろうな。  


2011.8.3(水)

学生のレポート    

 慶応大学SFCの障害福祉に関する研究会(ゼミ)のレポートの採点評価を昼間ずっとやっていた。レポートは、メールで私宛に送ってもらう。提出期限は8月2日23時59分としておいたが、案の定、この時間ギリギリに送ってくる学生多数。そのうち二人は、なんと、「送信日時23:59」となっていた。ぎりぎりまでがんばって作ったのだろうから、こちらも、レポート25人分を一所懸命読ませてもらった。障害福祉について学ぶのは、これが初めてという学生ばかりなので、そんなに深い内容にはならない。むしろ、初めての経験から来た衝撃を率直に語るものが多い。出発点だから、レポートの内容に期待するのは、無理である。といいながらも、学生の努力の跡は、残っている。なんとか、夕方までに、25人全員分の評価を終了した。  


2011.8.2(火)

患者が二人   

 朝7時過ぎから散歩。最近のお気に入りコース、岸根公園内を8分歩く。17分+16分47秒。このぐらいの時間歩くのは、結構な運動量である。今の身体状況では、丁度いいぐらい。  火曜日だから、慶応大学SFCに出かける日だが、先週で今学期最後の授業を終えた。大学だけが、レギュラー活動のすべてだったから、これからしばらくは、正真正銘「毎日が日曜日」の生活になる。人に会うこともない。今月の予定表は、まっしろである。

 義母が、心臓に埋め込んでいるペースメーカーの交換のため、昨日入院し、今日手術した。手術は無事終了して、元気だと、付き添った妻から電話連絡があった。ペースメーカーは8年使ったら、交換しなくてはならない。現在88歳だから、次の交換時には、義母は96歳になる。妻は、私のめんどうを見るだけでなく、義母の入院にもついていく。患者を二人抱えて、今は、大変な時期である。なんとか、踏ん張って欲しい。


2011.8.1(月)

病後だからこそのゆとり生活   

 8月最初の散歩は、夕方6時過ぎから。岸根公園内を折り返し点とする17分+17分20秒。曇り空で、風もあり、暑い思いをしないで歩くことができた。途中で、はやてのように駆け抜ける3人とすれ違った。ジョガーというよりは、ランナーである。その元気さが、うらやましい。

 次女聡子が、今日から1ヵ月半、和光市にある司法研修所での研修に出かけた。横浜の自宅から和光市に通うのは無理なので、1ヵ月半は研修所付設の寮暮らしである。和光市駅からバスで15分、近くにお店も少ないところで、講義、宿題、試験に追いまくられ、勉強漬けの生活になるらしい。

 司法研修所での研修が終わる9月半ばには、一時期、自宅に戻ってくるが、来年1月に、丸の内の弁護士事務所での仕事が始まると、事務所の近くで独り暮らしになる。聡子と一緒に暮らすのは、残りわずかということ。子どもは、いずれ巣立っていく。寂しくもあるが、私が病後の身で、「毎日が日曜日」の生活を送っているからこそ、この1年余を、聡子も含めた家族とゆっくり過ごすことができた。そのことを、むしろ幸運だと思うべきだろう。


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