浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

ジョギング日記  1月第5&6週分       

2016.1.31.(日)

震災後のまちづくり

 期末試験の採点作業が終了した。根を詰めてやったので、つらかった。採点報告書への記入は明日回しとなる。試験の点数と平常点を足したものが、その学生の点数となる。ともかく、なんとかホッとした。

 朝日新聞の一面トップ記事「巨大防潮堤 何守る」という見出しで、宮城県石巻市雄勝町の大震災後の様子をルポしている。問題となっているのは、高さ9.7メートル、延長3.5キロの防潮堤の計画である。道路や施設の保全と住民の安全を強調する県と、「景観を破壊する」と建設に反対する住民の話し合いは平行線である。

 大学で地方自治論を講ずる浅野教授としては、「参加と熟議の民主主義」を提唱したくなるところだが、いくら熟議をしても皆が満足するような結論は得られない。そうこうしているうちに、町を出て行く人が増え始めている。震災後のまちづくりのむずかしさは、雄勝町以外でも起きている。

 未曾有の大災害ということは、復興後のまちづくりに前例はないということである。たとえむずかしくとも、なんとか突破口を見出さなければならない。5年の集中復興期間はもうすぐ終了する。町を出て行く人たちは後を絶たない。時間がない中で、なんとかして結論を出さなければならない。


2016.1.30.(土)

日銀のマイナス金利政策

 朝のうち小雨。午後から早稲田の「つばさ」事務所で恩返しプロジェクトの打ち合わせ。SFCの教え子の峯岸宗弘君もホームページ作成などのアドバイザーとして参加してもらった。白血病を骨髄移植で治した元患者たちが、命を救ってくれた骨髄バンクに恩返しをしようというプロジェクトである。まずは、mailing listに掲載する人を増やそうというところから始まったところ。活動はこれからである。そもそもどんな活動をするか。メンバー間でいろいろ意見出し合おうというところ。そのためのmailing listである。打ち合わせでは、当初メンバー(happy membersという5人)が前に進もうということが決まった。

 日銀がマイナス金利政策を打ち出した。導入は、日銀内でも僅差で決まったという。この措置で、銀行は日銀にお金を預けなくなり、手元に残った金を融資や投資に回すようになることを期待しているらしいが、そううまくいくかどうか。なんとかインフレ率2%を達成するための、日銀として最後の手段のようなものである。しかし、日銀の施策だけでは目標達成できないのは、日銀自身も知っているだろう。英国BBCの報道で「必要なのは金融政策ではなく、構造改革だ」という専門家の見方を紹介しているが、そのとおりだろう。金融政策では、もう打つ手はない。

 答案採点は、半分終わった。明日で全部終了の目処がついた。深夜になるが、サッカーリオデジャネイロ五輪アジア最終予選の韓国戦でも見よう。  


2016.1.29.(金)

答案到着

 朝から小雨が降っている。夜遅くには雪になる可能性がある。そんな中、昼過ぎに神奈川大学から学期末試験の答案がゆうパックで届いた。369人分の答案はズシリと重い。送付状には、「成績採点報告書提出期限 2016年2月5日(金)必着厳守」と書いてある。

 5日までの期間で、2件日程が入っている。相当がんばらないと、「必着」に間に合わない。記述式の問題が4問あり、意味不明の記述も含め、膨大な量の答案を読んで評価するのは一苦労である。よって、今日の日記はこれまで。


2016.1.28.(木)

甘利大臣の辞任

 築地のがんセンターでの定期受診。待合室で、田中君代さん、小澤礼子さんと一緒になる。小澤さんとは久しぶり。待ち時間を利用して話がはずむ。やはり、同じATL 患者仲間は結束が強い。同病相哀れむとは違って意味で、お互いに励まし合っている。 血液検査の結果はほぼ順調。念のための検査の予定を入れた。

 甘利明経済再生担当相が記者会見で閣僚辞任することを表明した。この時点での辞任は想定内だったので、驚きはない。辞任表明が一日後にずれたとしたら、大変な事態になっただろう。野党とすれば、甘利氏が辞めないでいてくれたほうが、攻めやすかったというのが本音ではないか。これからもズルズルと政権側に注文をし続けることは、世論対策的にはあまりよくない。そのことも意識しながら、これからの攻め口を模索しなければならない。

 後任に石原伸晃氏。新大臣で、TPPについての国会答弁が務まるかと危ぶむ声もあるが、日本の官僚の働き具合を見れば、そんな心配はいらない。石原新大臣だって、国会審議で立ち往生になることは考えられない。野党の攻め方、この場面でも問われることになろう。    


2016.1.27.(水)

両陛下のフィリピン訪問

 神奈川大学の学期末試験。「地方自治論U」の試験には、約380人が受験した。一つの教室に入りきらず、2教室を使っての試験である。各教室3人の臨時監督者とともに、私は2教室かけもちで注意事項を伝えたり、質問に答えたり。学生たちが一所懸命問題に取り組んでいるのを見るのは楽しみでもある。明後日からは採点業務が待っているが、これは私にとって苦にならない。どんな答案を学生が書いたのか確認する作業なので、興味津々ということである。

 天皇、皇后両陛下は、昨日、フィリピンを訪問された。羽田空港での出発に際してのおことばでは、「先の戦争では、マニラの市街戦において膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」と述べられた。29日には、「比島戦没者の碑を訪れる。「フィリピン各地で戦没した同胞の霊を弔う」という趣旨である。先の戦争による惨禍には、両陛下は機会があるたびに、訪問地で必ず触れられて、お言葉を残されている。今回のフィリピンご訪問でも同じである。両陛下の強いお気持ちを推し量って、感無量である。    


2016.1.26.(火)

政局から政策へ

 甘利氏疑惑。書き始めるといつまでも続いてしまいそうな気がする。

 民主党が追及チームを作ったらしいが、しっかりゴールを決められるかどうか。ゲームの局面は、完全に甘利側不利である。サッカーのゲームでもよく見られる展開であるが、圧倒的に有利なゲームを攻撃側のちょっとしたミスで相手に反撃のゴールを入れられてしまう。攻める側のオウンゴールというのもある。

 この3日が、勝負のポイントという気がする。ここで決勝ゴールを決められなければ、引き分けに持ち込まれる可能性が高い。「決めるなら、一発で」がサッカーでも政局でも同じことである。

 そもそも、政局をこんなふうにサッカーの試合になぞらえてしまうのは、いいことではない。政局よりも政策、政党同士の闘いは、あくまでも政策でやるべきものである。政局でポイントをあげても、それで終わりではない。野党は、政策で与党と戦いを交えるべきである。その点で、野党第一党の民主党の弱さがある。政権与党に互角で対抗できるような政策論議を磨くべきである。そうでなければ、日本の民主主義は危うい。    


2016.1.25.(月)

宜野湾市長選挙の結果

 久しぶりの散歩を暖かい昼の時間に挙行。陽が出ていて風もなく、暖かい。富士山がくっきり見えるのに感激。そのことも含めて、気分上乗の散歩であった。

 沖縄県の宜野湾市長選挙で、現職で自民・公明推薦の佐喜真淳氏が当選した。マスコミはこれで「辺野古移設反対」という「オール沖縄」の流れにくさびを打ち込んだとか、反対を主張する翁長雄志沖縄県知事にとって打撃となったなどと論評しているが、そうだろうか。普天間基地を抱える宜野湾市民にとって、基地移設を望むのは当然のことであり、移設を強調する現職が票を集めるのは予想どおりである。

 今回の選挙に限らない一般論であるが、選挙の結果をどう見るかは、そう単純なことではない。どう考えても、この選挙の結果から、「辺野古移設反対」が否決されたと読むことはできない。沖縄県知事と対峙する政府側も、この選挙結果をもって「我が方有利」と安堵するとしたら、あまりにも楽観主義といえる。

 楽観できないのは、甘利明経済再生担当大臣も同じである。ダボス会議のセッションで、司会者から「大臣に関するネガティブ報道にどう答えますか」と質問されているニュースの画面を見たが、これは極めて異例なことである。甘利大臣は、「ここは私に関するスキャンダルを発信する場ではありません」と答えていたが、それはそうだ。帰国後には、野党、マスコミからの厳しい追及が待っているのだから、ダボスで答える必要はない。それにしても、甘利大臣はどこまでがんばれるのだろうか。興味本位で見ているわけではないが、今後の政局にとっても重大な案件であることは間違いない。  


2016.1.24.(日)

感動的な式典

 全国的に寒い一日。西日本では大雪に見舞われたところもある。鹿児島市に雪が積もっている様子がテレビで紹介されていた。横浜は雪こそ降らないものの寒い日であった。そんな寒い日、大船の「鎌倉芸術館小ホール」という素敵なところでの「社会福祉法人訪問の家三十周年記念式典」に出席した。

 会場も素敵だが、式典も素敵だった。こんなに感動した式典は初めてである。名里晴美理事長の冒頭のご挨拶が良かった。内容も良かったが、この種の式辞でよくあるような原稿の棒読みではなく、原稿なしの心のこもったご挨拶だったのが、心に響いた。その後、5人から祝辞が述べられた。私もその一人なので、言いにくいが、みんな実にいい祝辞だった。

 圧巻は、「三十年 そしてこれから」という日浦美智江前理事長の記念講演である。重い障害を抱えた子どもたちを受け入れた中村中学校、そこを卒業してどこにも行く場がなくなった子どもたちを、母親たちと日浦さんが初代訪問の家で預かる。「こんな狭いところに、いつまでも置いておけない。自分たちのお城が欲しい」として、横浜市栄区桂台に「朋」を建てるまで、横浜市の担当課に何度も要請行動を重ねる。

 ついに「朋」の設立に結びつく。日本で初めての重症心身障害児者が通ってくる施設である。地元町内会の設置反対運動も乗り越えての快挙である。それからの30年。講演内容を再現することはとてもできないが、多くの写真をスクリーンに映し出しながら、感動的なエピソードを交えて、日浦さんの珠玉の言葉の数々が語られる。聴いている我々は、涙、涙である。隣に座った池森賢二(株)ファンケル会長(当初から物心両面で支援を続けている)も涙、涙。会場のみんなが涙、涙、感動の波が伝わってくる。

 講演終了後、訪問の家一同から日浦さんに感謝状が贈呈された。スクリーンには、職員がこのために作った特別なビデオが映し出される。車いすの利用者から日浦さんに感謝状が手渡されると、日浦さんの顔は涙でくしゃくしゃである。それを見て、会場のみんなは拍手、拍手、そしてまた、涙、涙。  こんなに感動した式典は、初めてであった。

 この後、自宅にはSFCのゼミの教え子峯岸宗弘君と川崎大史君がやってきた。峯岸君には、パソコンの操作で教えてもらうことがあって、来てもらった。作業を終えて、昔話や近況報告などあった。教え子との付き合いが続いているのは、うれしいことである。  


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