2017.3.10(金)
鞆の浦へ
広島県福山市の鞆の浦へ。木谷正道君に誘われて、第7回「21世紀の朝鮮通信使・鞆」に参加するためである。
新幹線の福山駅からバスで30分の鞆の浦に着く。バスの左手に広がる海、瀬戸内海に浮かぶ島々が見える。天気がいいせいもあり、とても美しい景色である。私が参加するのは、前夜祭ともいうべき身内だけの集い。そこで「日韓視覚障害者囲碁交流と鞆の浦の未来」について語り合う。参加したのは、木谷正道(実行委員長)のほかに、森野節男(囲碁の普及社代表取締役・関西棋院九段)、柿島光晴(日本視覚障害者囲碁協会代表理事・アマ四段)、宋重澤(韓国視覚障害者トップ棋士・アマ六段)、朴成培(韓日コーディネーター)、羽田冨美江(さくらホーム施設長)の各氏。
この後、「日韓記念コンサート」として木谷君率いる「心の唄バンド」の丸山泰明(ボイスパーカッション)、三木靖子(ピアノ)、竹DS(創作ソロ手話唄)、栗城春奈(ボーカル)に金乗秀(韓国BSK音楽院長・サックス)、車哉成(韓国MBSオーケストラ団員・ギター)が加わって、目一杯楽しい歌の競演が1時間以上続いた。
その後の食事会は、手作り感満載のおしゃべり会となった。そこに、徐奉洙九段が登場した。囲碁の世界に疎い私だけが知らなかったが、明日石田芳夫九段と日韓トップ棋士対局をするために韓国から駆けつけた、韓国で超人気の実力棋士である。宴会が終わる頃には、愛知県で朝鮮通信使の記念行事を企画している3人(韓さん、朴さん、平山教授)が名古屋から車を飛ばして駆けつけた。これで、やっと「朝鮮通信使・鞆」の前夜祭らしくなった。
この日は、柿島光晴さんと同室での宿泊となった。「視覚障害者と一緒に泊まるのは生まれて初めてだ」というと、柿島さんは「元知事との同宿は初めてです」と応じる。柿島光晴さんは19歳で中途失明して現在39歳。失明してから囲碁に出会い、急速に力をつけて、日本の視覚障害者棋士としてはトップクラスである。視覚障害者は他にやることがあまりないので、日常生活では囲碁を考えることに集中する時間が多くあることが強みであるということは、昼間の座談会で聞いていた。
寝ながらの話で驚いたことがもう一つある。柿島さんは、Dialogue in the dark【ダイアログ イン ザ ダーク】で働いている。真っ暗闇で1時間過ごす体験(有料)のお手伝いをするのがビジネスになっている。企業の研修で広く利用されているとのこと。柿島さんは、8人のグループで暗闇体験する人たちを現場でガイドする役をしている。「真っ暗闇では、視覚障害者が優位に立つのです」と語る柿島さん。なるほど、なるほど、これは面白いと応ずる私。「今度浅野さんも体験してください」と言われてしまった。
日韓交流のこの日、韓国の朴槿恵大統領が憲法裁判所で罷免が言い渡された。これはこれで、一つの偶然である。私にとっては、囲碁アマ四段、視覚障害者の優位性を生かして仕事をする柿島さんと知り合ったことが、今回の鞆の浦イベントの最大の成果であった。
2017.3.9(木)
がんセンターで受診
築地のがんセンターで受診。2週間前の定期受診の際には、直前に風邪を引いていたこともあり、CRP(炎症反応)が6.45(正常値上限0.1)もあった。それから2週間、抗生物質を内服し、今日の受診に臨んだ。CRPは0.29に下がり、まだ上限以上ではあるが、確実に落ち着いているというのが稲本先生の判断である。心配はないということ。今後とも、無理はしないように、風邪を引かないように気をつけることにするが、まずは安心した。
待合室でATLサバイバー仲間の田中君代さんと一緒になった。お互い、どこかここかおかしくなるが、田中さんは元気なので安心した。サバイバー同士、励まし合って元気に やっていこうと思う。それぞれ受診間隔がまちまちなので、なかなかお会いする機会がないのだが、今日はお会いできてよかった。
2017.3.5(日)
石原慎太郎元東京都知事の記者会見-追記
3月3日に、石原慎太郎元東京都知事が豊洲市場移転についての記者会見をした。その日の日記に「記者側の攻め方がうまくない」と書いた。その後、よく考えてみたら、これは記者諸君が、石原氏にとって何が問題かを把握できていないせいだということに気がついた。
石原氏の回答は、「そんなことは知らなかった」、「専門家でないからわからない」、「下から上がってきた案件を承認するだけ」、「司、司に任せていた」というものだった。豊洲移転問題という重大な政策について、「知らなかった」、「下から上がってきたことを認めざるを得なかった」というだけでは、行政のトップである知事として都政のガバナンス(内部統治)の職責を果たしていないということを意味する。
これは、石原知事が専門的なことを知らなかった、能力がなかったからではない。都政の課題に真摯に取り組んでいなかったからである。当時の石原知事は週2,3回の登庁、しかも4時間程度の執務だった。これでは、重大な案件について適切な判断をすることはできない。石原知事のいいかげんな執務ぶりは公然の秘密であり、マスコミも皆知っていた。しかし、当時、マスコミはこれを指弾することはなかった。
知事として真面目に執務していれば、東京ガスとの確認書に「瑕疵担保責任の放棄」の条項があることに気がつくはずだし、その場で部下に趣旨を確認し、そのおかしさを指摘できた。そんなことは土地の売買の専門家でなくとも、工場跡地を高額で購入する東京都のトップとして、当然、チェックすべきものである。これを怠っていたことを棚に上げて、「知らなかった」で済ますのでは、不作為の責任を問われても仕方がない。知事としてあるまじき職務怠慢であり、それは週に3日だけの登庁といういいかげんさに表れている。豊洲移転問題についての知事としての責任は、ここにこそある。そのことを指摘しなかった記者たち。記者会見では石原氏に逃げられてしまった。
こんなことを考えながら、今日は雑誌「ガバナンス」4月号の原稿を書き上げた。
2017.3.3(金)
石原慎太郎元東京都知事の記者会見
桃の節句、3月3日の雛祭り。それが「非難祭り」になるかもしれないという「期待」は裏切られた。午後3時から4時の、石原慎太郎東京都知事による「豊洲市場移転問題」についての記者会見のことである。
質問し追及する記者側の攻め方がうまくない。石原氏が何度も何度も繰り返した「司、司に任せていた。専門家でない自分は下から上がってきた案件を承認するしかなかった」という回答で済まされてしまった。東京ガスとの交渉で瑕疵担保責任を放棄した件は、部下に任せていい問題ではない。「(私は)土地取引の素人だから、専門的なことはわからない。浜渦に任せていた」という答弁を聞き流してはならない。
「記憶にない」の連発では、記者が納得しないことは、事前にわかっていたのだろう。今回の石原氏は、「下に任した。議会も認めた」として責任を回避する作戦に出た。これはそれなりに功を奏した。
返す刀で、「安全な豊洲市場の開場をだらだら延ばしているのは小池知事の不作為責任だ」と何遍も強調した。「言われっぱなしにはしないぞ、悪いのは俺でなくてあいつだ」という気構えだけは、認めることにしよう。攻撃は最大の防御ということだろうか
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