浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

Voice 2 日本「百年の計」part2から

「東京型豊かさ」との決別

47都道府県の総合力こそが国をつくる力

 これから百年、日本の民主主義における三つの柱となるべきものは、地方分権とNPO、それに情報公開であろう。日本全体の活力を取り戻すためには、まず中央集権の体制から卒業しなければならない。中央集権は、全国画一で公平、共通を理念として、国民一丸となって高度成長を達成するときに必要な方法論、イデオロギーであった。その前提は「中央は地方よりも賢い」という考えで、国が地方自治体にお金も知恵も授け、国が親、地方は完全なる子供と見なされていた。

 だが、もはや力がない子供に手を貸し、親の権限の範囲内で遊ばせる時代は終わったといえる。これからの百年で、日本の各地域は独自性をもって競争し、「自立」「自由」「責任」をキーワードに地方分権を進めなければならない。むろん、「自由」という言葉の裏には「格差」や「失敗する自由」がある。しかし、地方が・「自主」「自由」を掲げないかぎり、社会に「責任」は生まれず、日本の再建はありえない。

 そもそも、国という概念的な主体は無前提にあるわけではなく、47都道府県の総合力が国を形成しているのである。「国」対「地方」という概念で分ける場合にも、「国」という実体があるかのようだが、現実はそうではない。宮城県民は全員日本国民であり、さらに言えば、3250余の市区町村の集合体が国家である。日本の活力は「国力」といぅ曖昧な概念ではなく、全国の市区町村、それらを集約した47都道府県行政の足し算によって決まる。つまり、それぞれの地域が強くなければ、日本の強さが生まれるはずはない。逆に、地域の力が削がれれば、そのまま国の地位の低下となる。この点はおそらく国民も認識しているだろう。地域の力の強化が、これから百年の優先課題となる。

 ただし、財政が苦しい、景気が悪いといったことと、地方分権の間題は分けて考えるべきだろう。財政が苦しいから独自の税源がほしいといっても、それは通らない。システムの問題として考えた場合に、財政状態がよかろうが悪かろうが、自分たちの使っているお金の自由度をどれだけ確保するかが根本的問題なのである。

 2000年4月に、地方分権推進一括法が施行された。権限が地方に移譲されたのは画期的なことだが、重要度で測ると10のうち2ぐらいの割合でしかない。残りの8割は、お金の問題だ。財源が移譲されないかぎり、真の地方分権とはいえない。この場合の財源とは、お金の使い方の自由度である。いまの補助金には自由度がない。用途があらかじめ決められている。農業の圃場のためだけに使うという具合に、手足を縛られているのだ。

 国民を子供のように喩える失礼を許してもらうと、たとえば、下宿をしている学生に仕送りとして10万円を度し、使い道は由由でよいという場合と、教科書代に1万円、食費に3万円という具合に、用途を決めた紐付きのお金を与えるやり方の二つがあったらどちらが学生のためになるだろうか。

 むろん、紐付きには子供を気遣う親心もある。酒代にお金を使い、教科書を友人から借りる放蕩息子になると困るから、教科書代だけを渡す。だがこれは、親から子供が信用されていない証拠である。また、子供のほうも金銭感覚が身につかず、いつまでも親から自立できない。それと同じように、これからは地方が財源を獲得し、その用途を自分で決めるのが「自治体」本来の仕事になる。いまの日本の地方自治体の成長度はもはや親の庇護を受ける高校生ではなく、いわば大学卒業のレベルで、そろそろ勤めだしてもよい時期である。それなのに、使い道を指図された仕送りを受けているままでは、地域に自立意識が生まれるはずがない。自由だからこそ節度を守ろうとするのが、真の自立である。

 2000年の3月に、宮城県の新しい総合計画が発表されたが、その表題は「新世紀豊かさ実感みやぎ」である。サブタイトルは「真に豊かな安心とゆとりの地域づくり」とし、「新しい豊かさ」を前面に出した。つまり、20世紀型豊かさと決別し、21世紀型豊かさを追求するものだ。20世紀型豊かさとは大量生産、大量消費、大量廃棄、スピード、効率、流行といった言葉で表され、別の言葉でいえば「東京型豊かさ」である。

 従来は地方にとって「東京型豊かさ」が一つのモデルであり、それとの距離によって自分たちの豊かさ、幸福度を推し量ってきた。各県の県庁所在地はいわば「ミニ東京」であって、宮城県では仙台市が他の市町村から「仙台市のようになりたい」という目票になっていった。県内では「仙台一極集中の弊害」が指摘されているが、県庁所在地ならどこでも存在する問題だろう。だが、「仙台市も東京のようになりたい」「わが町は仙台市のようになりたい」と思っているうちは、仙台市は永久に東京にはなれず、その町は仙台市になれない。むしろ、なろうとすること自体が間違いであって、(締めからではなく)別な価値観と真の豊かさを求めるべきだろう。それが「21世紀型豊かさ」であり、具体的には「安心」や「ゆとり」、「安らぎ」や「独自性」である。宮城県は幸いにして自然環境や食べもの、人情、歴史と文化が豊かな県なので、それらを県民が実感して、老後の安心、介護の安心を得られる地域づくりに力を入れている。

 そこで大事なのは、心理的「誇り」である。私は知事になってから「ないもの探しはもうやめよう」といってきた。「わが町にはあれもない、これもない」という代わりに「ここにしかないもの」を見つけ、見つけたらそれを育てればよい。それが地に足がついた21世紀型豊かさだろう。自分たちの住む地域を自分たちが愛さずに、誰が愛するのか。


地域の誇りを取り戻さなければならない

 また、2020年から2030ごろに、日本は高齢化のピークを迎える。社会全体が高齢化すると、高齢者は何歳以上かという定義も変わるだろうし、現役の生産活動から引退した高齢者たちがどこに住むかも新たな間題になるであろう。地元に雇用の揚がなく、チャンスを求めて都会に出たり、「ミニ東京」である仙台に出る。そこに生涯住む人もいるだろうが、ふるさとに戻りたいと思うのが人情だ。Uターン、Jターンの増加に見られるように、地方というのはやはり帰るべきところなのである。その兆候を先取りして受けとめ、「わが地域は高齢者の住む条件が整っている」と主張しなければ、人々が出ていってしまい、、住むに値しないゴーストタウンになってしまう。これは日本における「ふるさとの喪失」であり、地域そのものの喪失である。それを防ぐために、いまこそ地域の誇りを取り戻さなければならない。

 ただし、人間は誇りだけでは生きられない。そこにしっかりとした定住条件がなければならないが、必ずしも定住条件=雇用ではない。かつて定住条件は雇用と密接不可分で、雇用の機会がないところには人が集まらなかった。しかし、これからの高齢社会では、いくら雇用があっても、暮らしの安全が守られず、要介護状態になったら孤独死するしかない地域には誰も住まないだろう。あるいは生産活動を終えた高齢者が、自分以外の人のために、お金が目的ではない活動をしたいと思ったとき、それを支援する環境条件を備えた地域に、人が集まるようになる。NPOの認証を得て法人化するかは別として、目的と公共性をもった団体を多く育てることが、未来の定住条件になるだろう。宮城県が「NPO花盛りの県」というスローガンを掲げているのは、NPOが地域づくりの重要なツールになると考えたからである。NPOが盛んな県はそうでない県よりも住みやすいという認識が、21世紀の前提になるのではないか。

 三つ目の課題は、情報公開である。情報公開というと「秘密をさらけ出す」というイメージが強いが、本質は「情報の共有化」そして「責任の共有化」である。「月の小遣いを1万円から2万円に上げてくれ」という息子に、ただ「ダメだ」というだけでは、息子も納得してくれない。しかし、給料の明細書や貯金通帳を見せて「わが家にお前の小遣いを2万円に上げる余地はない」と説明すれば、理解が得られる。同様に、県民に対して財政状況を明かして「県の財政はこのような状況で、用途はこうなっています」と説明すれば、県民もむやみな要求はしない.政治への関心が低いのも、自分たちと関係のないところで議会が運営されたり、税金が使われていると思っているからだ。これでは、日本全体が無責任社会、無関心社会になってしまう。情報公開とは広い意味での情報の共有化である。「ご覧ください、悪いことはしていません」という態度ではなく、国民が自らの問題として関心をもつ「コミットメント(関与)」を促すことである。為政者は情報公開、情報共有、責任共有によって国民のコミットメントを取りつけなければならない。それが本物の民主主義を根づかせることにつながるだろう。

 日本という国は、けっして捨てたものではないと思う。日本人は知的水準、教育水準も高い。全国で特色ある地域づくりが行なわれれば、活力ある社会を維持できるだろう。その要となるのが地方自治体である。地方分権は中央からご褒美のように与えられるものではなく、自ら勝ち取っていくものである。他県においても、長野県のように、知事が交代したことで「県政が変わった」という雰囲気が生まれ、県民が政治に期待をもちはじめた。県民の意識次第で、変革はいくらでも可能なのである。


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