浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

晨 Ashita 4月号
特集「自治20年の軌跡」 から

自治体と国との関係は
どこまで改善されたか

地方の仕事は地方に任せるべき

 

地方分権推進一括法が施行され、機関委任事務が全廃されたが、
自治体と国との関係はどこまで改善されたのだろうか。
突然の介護保険制度の見直し、あるいは自治体を支配する国の補助金―いずれも地方分権の推進とは相反するものだ。
しかし、今や新しい試みや斬新な発想は地方から始まっている。
自治体は自信と誇りを持ってしかるべきである。
地方の仕事は地方に任せ、国は国でしかできないことに集中すべきだ。


国はほんとうに地方分権を
進める意欲があるのか


 平成十一年秋、介護保険の施行を半年後に控えている時期に、実施にあたる地方自治体としては信じられないような制度の見直しが突然発表された。平成十二年四月から始まる介護保険の第一号被保険者の保険料徴収を、平成十二年十月まで半年間延期し、そのあとの一年間は本来の保険料の半額だけ徴収するという内容の見直しである。

 市町村において精力的に進められてきた、制度の理解を進めるための努力を無にするものだとか、保険制度としての基本的な部分をないがしろにするものだといった批判が、地方自治体側から強烈に寄せられた。施行を半年後に控えて、準備に忙殺されていた市町村の実施部隊にとっては、直前の制度変更は新たな大変な労力を意味する。その面からの悲鳴も上がった。全国知事会としても、この時期の唐突な見直しは反対ということで、私が代表として首相官邸に出向きその旨の要望をしたが、結局は押し切られることになってしまったのは、まことに残念なことであった。

  私が問題にしたのは、見直しの内容そのものだけでなく、その手続きである。介護保険の実施主体は,各市町村である。そして、この事務は地方分権推進一括法においては、自治事務と位置付けられている。保険料をどの程度のものにするかを決定するのは、各市町村である。保険料をゼロにするという判断が、市町村の意向を無視して,国によって一気に強行されたということに、極めて大きな問題がある。しかも、これらのことを,法律改正の手続きをとらずに、行政指導の形でやってしまった。

  「介護保険は地方分権の試金石」と言っていたのは,決して自治体だけではない。国においても、市町村の意欲を高める言い方として使っていた。半年後には地方分権推進一括法の施行を控えているその時期に、介護保険の運用において、国が「右向け右」と言えば地方は相変わらず右を向くと思い込んでいたということである。このことに対して、怒りやら無力感やらを感じてしまった。

  地方分権推進一括法が施行されて、機関委任事務が全廃されたといっても、実態はこんなものである。地方分権を進めるという意欲が、国の側にほんとうにあるのか疑わしくなるのも無理もない。  


中央省庁再編の「幻想」


 中央省庁の再編も、本来は、地方分権の中身を伴うものでなければ、単なる足し算に終わってしまう。この機会に、国として持っている必要の薄い補助金は廃止をするといった改革を伴わなければ、あれだけの大改造の意義は大いに減じられる。

  関連して、国土交通省の誕生を契機とした地方整備局のありかたも、誕生直後のこの時点でしっかり押さえておかないと、地方分権の推進の観点からは問題が残る。国土交通省としては、地方整備局に予算の配分の権限を大幅に委譲するということをもって、分権が推進されると考えているようだが、それほど単純ではない。財源を委譲する先がどうして各県でないのか。本省から各地方整備局への予算配分のルールがあるとすれば、そのルールを直接各県への配分に適用すればいいので、地方整備局を経由する必要性はない。ルールどおりでない部分は、いわゆる「箇所づけ」の積み上げであり、結局はその箇所づけを得るためには、各県はあいかわらず、本省もうでをしなければならない。

  もうひとつの本質的問題である、各事業間の相対的優先順位の判断は、これも相変わらず地方整備局ではできない。道路、港湾、空港、河川の各事業の中で、ある県での優先順位の判断は、本来は、各県で行なうべきものである。地方整備局でできるのは、ある事業をA県、B県、C県の中で、どこを優先させるかの判断を本省の指導を借りずにできるということだけである。この「限界」をお互いに認識しておかないと、「地方整備局ができて、地方分権が大いに進んだ」という「幻想」が振りまかれる。それでは「地方」としてはたまらない。


変わらぬ補助金による
自治体支配


  国と自治体との関係で、「変わったもの、変わらないもの」という観点で考えてみると、どうしても補助金の問題に行き着く。補助金の存在を基点にした国による自治体の支配という図式は、ほとんど変わっていない。この部分にきっちりと変革のメスを入れないと、職員の意識も変わりようがない。

  ある学者から聞いたエピソード。フランスでも国から地方への補助金の廃止には、大変な努力が重ねられた。彼はその実情を調査にフランスに出向いたのだが、国の担当官とのやりとりの中で、同行の通訳とその担当官とで喧嘩になった。「この通訳は,数字を正しく訳せない」というのが担当官の言い分。「日本では,国から地方への補助金の数は二千三百」といった部分である。それもそのはず。フランスでは一八〇あった補助金を五十五に減らしたという話であって、二千三百は文字通りけた違いであり、通訳間違いと思うのも無理がない。

  その「けた違い」に多い補助金の一つひとつに、運用上の問題が指摘される。補助金の分配には、分配する権限を持つものの裁量が働く。裁量の余地がないなら、地方交付税の基準財政需要額に組み込んでおくか、本来業務として自前財源の中に含まれていると考えるか、いずれにしても一般財源の中での話である。あえて、ひもつきの補助金という構成をとる必要はない。

  農水省の構造改善事業に関する補助金の分配に関しての汚職事件が、二年前に発覚した。その事件を受けて、農水省では補助金の配分に客観的な基準を導入して、担当官の裁量の余地が働かないようにするという方針を示した。「それなら、なぜ、その事業に係る財源を農水省の補助金として構成するのか」という疑問に結びつくのだが、問題はそれだけではない。

  上記の見直しがあったのと同じ頃、衆議院議員選挙が間近に迫っていた。徳島県からは、農水省の構造改善局次長を務めた人が候補者として選挙民に対するアピールをしていた。自分が衆議員議員になれば、国からこの地元に補助金を含む財源をどんどん引っ張ってくるというものである。補助金配分における裁量の余地が極小になれば、これはできない話。この二つの話を重ね合わせて考えてみれば、どちらかが「できもしない無理なこと」を主張しているということになる。

  官官接待については宮城県においても大きな問題になり、早い時期にその全廃を宣言したが、これも補助金の存在と切り離せない問題である。補助金をどこにつけるかという箇所づけについて、裁量の余地があると考えるからこそ本省の役人に対する「接待」をはじめ、さまざまな便宜供与が行なわれる。それによって、実際に有利な扱いがされれば図式としては贈収賄になるが、それ以前に、補助金をめぐって客観的基準が明らかでない裁量が働くと自治体側が思い込むところに、官官接待の素地があるということが問題にされなければならない。


自治体は
自信と誇りを持とう


 国と自治体との関係について、自治体側から見て、権限、財源、情報、人材ことごとく国に頼らざるを得ないという思い込みがある。あえて、「思い込み」と書いたが、まさに思い込みであって、決して実態があるわけではない。

  権限は、地方分権推進一括法により機関委任事務が全廃されて、流れは大きく変わった。財源については、補助金の問題点を地道に継続的に論じていくことによって、いずれ新しい方向は出てくるだろう。情報について言えば、最新の情報はあらゆるチャネルを通じて、自治体にもリアルタイムに近い形で流入している。

  あとは、分析能力である。住民に関する直接情報であれば、自治体のほうが国よりもよほど第一級のものが手に入る。人材だって、何年も前から、自治体に素晴らしい職員が集まるようになっている。

  結局は、自治体側で自信を持とうということになる。そのためには、自治体から発信する事業を打ち出していくことが、ぜひとも必要である。仕事の内容だけでなく、新しい発想も、常に国から降りてくるものという思い込みが、地方の側にあったのかもしれない。そんなことはない。新しい試み、斬新な発想は今や地方から始まっているのであり、その意味では、地方は実物大で自らを評価し,自信と誇りを持ってしかるべきである。この意味では、地方の側のありようは確実に変わるであろう。


国と自治体の
役割分担の徹底


  翻って国の側に望みたいことは、国際化への対応と、真の意味での専門性の確保である。国際化について言えば、今や,行政のすべての分野において国際化の影響を免れることはできなくなっている。外交,防衛、金融、経済は言うに及ばず、農林水産物の海外からの流入、地球環境問題、エイズなどの疾病、麻薬,銃器など歓迎せざるものの海外からの流入の問題にどう対処するか。逆に、海外市場にどう乗り出していくか、観光,国際交流などなど、国の段階での対応が大いに期待される分野があり、その分野でどのような政策をとるかが国益上極めて重要である。こういった仕事は,国の省庁が最大限に力を発揮すべきものである。

  言いたいことは、こういった国際化への対応はおろそかにして、地方が主体的に実施する事業のやりかたやら、箇所付けやらのほうに大事な時間と労力とをかけ過ぎてはいませんかということである。国際化への対応だけでなく、専門性の確保についても同じである。がんやエイズの予防法,治療法などということを、地方自治体の努力に任せてもどうにもならない。こういった専門的なことは、本省に力と人材とお金を集中してやってもらわなければならない。

  結局のところ,もちは餅屋での役割分担の問題である。地方の仕事については、地方を信頼して任せて欲しい。国では、国でしかできないことに集中して欲しい。昔から言われているそのことだけである。このことが、二十一世紀の複雑で困難な課題を国全体として乗り越えていくための唯一の方法であると信じる。


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