浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

PRESIDENT2001.5.14号
集《1週間で差をつける!
「人生計画」上方修正プラン》より

インタビュー・構成=土方正志

私の「人生立て直し案」
一度「右45度発想」を捨ててみよう

「路頭に迷うという言葉を思った。本当に怖かった……」と浅野知事は回想する。 安定した厚生省官僚の職を辞しての知事選出馬。それを決意させたものは、 組織の中での当たり前の感覚としてあった「つねに上を見る発想」への疑問だった。

日本人に刷り込まれた
「上昇志向」の危うさ

宮城県の知事になる前には厚生省(現・厚生労働省)にいました。厚生省に不満や不平があって知事へと転身したわけではないんです。それどころか、厚生省は自己実現のためにとてもいいところだった。仕事を通じて自分を変えることができた。厚生省での経験があって、いまの私があるんです。

自分が変わったきっかけは、厚生省での障害福祉課長時代にあります。このポストに就く以前には、組織の中でのいわゆる上昇志向がありました。なんとかして他人に認められたいと思っていたんです。出世したいとか偉くなりたいというのは、その結果であって、みんな結局のところ他人に自分を認めてもらいたいという気持ちが基本にあるんじゃないでしょうか。

私もそうでした。口では格好よく「そのときそのときのポストで全力を尽くす」とか言いながら、つねに次のポストを見ていた。視線はいつも斜め右上四五度くらい。いま自分のいる階段の、ちょっと上の踊り場を見ている。上を見ながら、そのときそのときの仕事を一生懸命やっていれば、組織の上部のしかるべき人が「浅野はがんばっているな」と認めてくれるんじゃないかと思っていた。現在のポストがつねに次へのステップというわけです。これが私のいう上昇志向というやつです。

つねに斜め右上四五度を見るという心理は、日本人に共通する「刷り込み現象」のように思うんです。受験というシステムが、この「刷り込み現象」を生む大きな原因になっている。少しでもいい高校へ、今度はもっといい大学へ、そうすれば人生のメーンストリームに乗ることができる――と。受験勉強なんて決して楽しいものじゃない。だけど、がんばって上を目指せばなんとかなるはずだとみんな思ってきた。この感覚が多くの日本人の血となり肉となってしまっている。これ以外の感覚を持てといってもむずかしいくらい、深く根を下ろしている。この感覚のまま、社会人になり、組織に入る。仕事もすべて受験勉強と同じ発想のままやってしまうから、「つらい仕事だけれど、ここでがんばればもっと上に行けるはずだ」という上昇志向が自然に出てしまう。

だけど、つねに斜め右上四五度を見るという感覚で死ぬまでがんばればいいのか。このままだと、棺桶に入るときにも「ここでがんばればもっといい天国にいけるはずだ」なんてことになっちゃいますよ。このバカバカしさになかなかみんな気がつかない。

障害福祉課長になる以前は私も気づいていなかった。厚生省という組織に入って、仕事としてたまたま障害福祉の担当になった。その前は年金が担当だったけれど、単に担当している仕事をしているだけという役割認識でしかなかったんです。障害福祉課長も最初はそんな「役割」の一つでしかなかった。ところが障害福祉という仕事は違った。おもしろかった。のめり込みました。

大きな要因は「人」でした。いままでの自分の人生で会ったことのないような魅力的な人たちにたくさん出会った。給料をもらいながらこんな人たちと議論できるなんて、なんておもしろいんだろう、幸せなんだろう、と感じました。みんな障害福祉という仕事を戦う戦友たちだったといっていいかもしれません。社会から抑圧されたり哀れまれたり、さまざまな偏見にまみれて生きている障害者。そんな人たちと一緒に戦う戦友たちだったんです。現状に対するアンチテーゼがなければならない仕事でもありました。仕事そのものが文字どおり戦いだったんです。君は施設長として、君は学者として、君はマスコミの人間として戦え。私は厚生省の人間として戦う。みんなそんな感覚で仕事に取り組んでいました。厚生省の役人としてただ単に担当になったというだけではやれない仕事でした。この仕事を通じて自分の役割認識が変わったんです。

これが大きな転機となって、仕事をしながら、その仕事の奥にある意義を見いだすことを知ったんです。斜め右上四五度に自己実現の場所を求め続けるのではなく、「いま」の仕事そのものによって自己実現は可能なんだ、充実感を味わうことができるんだ――と。こういう感覚を味わえたことは非常にラッキーな経験でした。障害福祉の仕事を通じて厚生省の仕事に満足していたといっていい。

翌日から住む家もない失業者になってしまう。
この恐ろしさをリアルに感じました。

だからこそ、知事選に出るか出ないかは迷いに迷いました。なんの保証もないんですから。「路頭に迷う」ということばが非常に現実的に頭に浮かびました。具体的に言えば住宅の問題です。私はずっと公務員住宅に暮らしていたので家を持っていませんでした。妻も子もいるのに、ここで厚生省を辞めて知事になれなかったら、翌日から住む家もない失業者になってしまう。この恐ろしさをリアルに感じました。本当に怖かった。

清水の舞台から飛び降りる、そんな気持ちでした。正直、損得も考えました。でも、清水の舞台から下を見て「だいじょうぶかな、やっぱりやめとこうかな」なんて考えていたら、いつまで経っても飛べません。だれかに、あるいはなにかに背中を押してもらわなければならなかった。

その原動力は「怒り」でした。ちょっと格好よくいえばあの選挙への出馬は損得では測れないものだったんです。現職の知事がゼネコン汚職で逮捕された結果の出直し選挙という異常な状況でした。宮城県出身者として、「どうも故郷がおかしなことになっているぞ」とは感じていました。東京で暮らしているうちは傍観者の怒りでしかなかったものが、いよいよ自分が出なければならないとなってから、その怒りは宮城県民みんなが持っているものだと気づいたんです。それが原動力となって、私の背中を押してくれたんです。

あの選挙は浅野じゃなくても勝てた、前職の逮捕が追い風になった――と、あとからずいぶん言われました。それはそのとおりです。だけど、それじゃだれが出る気になれたのか。だれが出ても勝てたかもしれないけれど、だれかが実際に出なければなにも変わらない。なんて無謀なやつだ、おっちょこちょいなやつだなんてみんなに言われながら、結局その選択ができたのが私だったんです。

あのときは本当に怖かったけれど、いまではあの怖い体験も自負になっています。路頭にも迷わずにすみましたし(笑)。いまはとにかく心身ともに充実しています。

「東京が中心」という発想も
一種の刷り込みではないか

私は知事という仕事は、広い意味で障害福祉課長の仕事の延長だと考えています。厚生省時代に、故郷に帰るとしたらどんな仕事があるだろう――と、漠然と考えたことはありましたが、いちばん幸運な形で里帰りができたと思っています。

東京から故郷に戻ることを「都落ち」という言い方が、まだあります。こんな失礼な言い方はない。これも地方から斜め右上四五度の位置に東京を置く「刷り込み現象」の一つだと思うんです。地方都市が東京の真似をして「○○銀座」と名乗るのも同じ刷り込みの裏返しでしょう。でも、それは食うに困った時代に生まれた価値観でしかない。二一世紀に暮らすわれわれは、もうその種の刷り込みから抜け出すことを考えるべきなんです。      


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