浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』

 

Gakken 教育ジャーナル
2001年6月号
《人模様
》から

障害児との出会いが教育を変える

 厚生省の障害福祉課長をしていたころ、障害福祉30年の北浦さんから教えられた。
 「この子たちも成長しているのです。昨日できなかったことが今日できるようになる。今日できなくても明日できるかもしれない。だれもがみんな一生懸命いきているのです」
 この子たち一人ひとりの生きる力を共有することが、これからの教育にはかかせない、と浅野知事はいう。


七転八倒の末に

―1993年11月に45歳で知事選に立候補された。厚生省の生活衛生局企画課長、浅野課長の転身の一番エモーショナルな部分は何だったのでしょうか。

浅野 故郷ですからね、まさにエモーショナルな部分がかなりあった。仙台市長が逮捕さ れ、続いて宮城県知事が逮捕された。ゼネコン汚職です。わが故郷が踏みにじられ、汚れてしまった。

 ところが、その出直し選挙に当時の副知事が出て、それでほぼ決まりだと。いくらなんでもそれはないだろう、恥の上塗りではないかと、他人事で怒っていたのですが、そのうち自分がやるしかなくなったということです、かんたんに言えば。

―決断を後押ししたものは何でした?

浅野 自分のライフプランとしては、辞めろと言われるまで厚生省にいることに不安も不 満もなかった。やりがいのある仕事だし、充実していた。逆に、辞めることに未練がある わけです。それに、選挙に勝てる要素はほとんどなかった。

 高校時代の先輩に「0対20で負けている野球の試合の9回裏ツーアウト、ランナーなし のバッターだよ」と言われたほどです。だから、自分の人生にとって損か得かみたいなことですごく迷いました。

 その中で、最後に足が動くのは結局は生の感情……怒りみたいなものですね。出発点がそうだった。怒りで代表される生の感情に立ち返ると、損か得かを考えている自分が恥ずかしい、そういう思いに一瞬とらわれたときにトンと足が動いて、やることになった。あとは勝つしかない。決めてからは切り替えが早くて、絶対に勝てると思っていました。

―絶対不利の中で勝てると思った、それは何だったのですか。

浅野 県民も怒っている、みんなが怒っていることが力にならないはずはないと。そう考えていくと、感じるものなのです。

―怒りで動いたのは理解できますが、今ある生活、家族……引き止める要素はたくさんある。もう戻れない。それでも怒りで一気にいっちゃったのですか。

浅野 そこまでが七転八倒ですよ。路頭に迷うという言葉が頭に浮かびました。たとえ話 ではなく、公務員宿舎に入っていましたから、公務員を辞めるということは、仕事だけでは なく、家族をかかえて住居ごとなくなる。人生で一番苦しい決断でしたね。

 選挙のあと、世間の評は結果的にはだれが出ても勝てたということになった。私もその とおりだと思いますよ、あの図式は。浅野史郎なんて、県民のほとんどだれも知らなかったのだから、私で勝てたという要素は非常に少ない。だけれど、ではだれが出たか。声を かけられたけれど出なかった人と、七転八倒の苦しみの末に出た人間とでは、自分で言う のも何だけれど、ものすごい違いがある。今となってみれば、それがある意味では自負に なっています。

―それが知事の真骨頂だと思います。知事の職に就かれてからの戸惑いはなかったの ですか。田中康夫さんの奮闘ぶりが伝えられていますが。

浅野 23年間、役人をやってきたのですよ。仕事の内容自体はわかっているわけですね。どう上司をだますのかを含めて、役人はどんな考え方をするのかとか。その意味では不思議の国のアリスではありませんでした。


人間は何のために
生きているのか

―厚生省時代は障害福祉行政に思い入れをもちながら仕事をされていた。知事の障害者対策のお話がほかの方と根本的に違うと思うのは、障害者一人ひとりの個性という言葉をよくお使いになられ、個をきちっと見ながら対策を立てておられる。
 おざなりの福祉ではないのだなという感じがします。

浅野 障害者間題に対する私の対応は、個性を大切にというのとは少し違います。私のこの問題へのアプローチの原点は、ちょっとかっこいい言葉かもしれませんが、人間として の尊厳なのです。多分早い時期に、この問題の本質はそこにあるのではないかと感じたことが大きかったと思います。

 私の原体験は、障害福祉に携わる前です。昭和45年に厚生省に入って、初任者研修で行 った先のひとつに重症心身障害児施設がありました。生まれて初めて行きました。それまで、重症心身障害児という概念すら知らなかった、見たこともなかった。そのとき、数十人まとめて見た。生理的に気持ち悪くなりま した。頭囲1メートルの水頭症の子、奇声を発している子、動けない、しゃべれない、見た目がふつうの人間ではない。この子たちは 何のために生きているのだろうというのが、一番最初に私の頭に浮かんだことでした。ものすごいショックでした。

 研修が終わっても、「この子たちは何のために生きているのか」という問いに対する答え はわからなかった。しかし、そのとき対応してくれた保母さんが言った、「あんたがた、この子たちが何もできないと思っているでしょう。だけど、この子たちに働きかけることによって、昨日できなかったことが今日できることもあるのですよ。今日できなかったことが明日できるようになるために、私たちはこの子たちに働きかけているのですよ」という言葉に、何か答えのヒントがあるような気がしていました。

 それから15年後に北海道庁で福祉課長を2年やって、厚生省で障害福祉課長をやった そのころは答えがわかってきたのです。

 そもそも、「この子たちは何のために生きているのか」という問いは、私に刷り込まれて いた「人間は何か社会に貢献するために生まれてきた」という人間観にかかわっていました。その物差しで言えば、目の前の子どもたちは、どう考えても社会に貢献する存在にな れるとは思えない。まるで、この人たちは生きている価値がないと言っているようなものなのです。

 だけど、人間は社会に貢献するために生まれてきて、貢献度によって偉さが決まるとい う人間観自体が違うのではないか。

 15年前に聞いた「昨日できなかったことが 今日できるようになる」ということも、実は生きるってことではないのか。それが人間の尊厳。これはみんなが同じに持っている。そう思うと、そこからいろいろなものの定義を再構成することができるわけです。


子どもの能力を
引き出すことが教育

―その人間観は、知事の中でどのように 形成されてきたのですか。

浅野 私は団塊の世代です。小学校以来、子どもが多いのだから頑張らないといい学校に入れない、いいところに就職できない、いいお嫁さんもこないと、競争、競争の尻たたき でした。それにまた、戦争に負けた、日本は貧しい。石油は採れない。鉄もない。資源な んか全然ない中で、あるのは人的資源だけだ。それを磨くのが教育だと考えられていて、何の疑いもなかったわけですね、私たちは。

 個人の幸せを求めると同時に、いい教育を受けて、日本の国のためにそれを還元するという高い目的もあった。そこから貢献重視主義と私が名づけた人間観ができてくるわけです。その人間観によれば、子どもたちを社会に貢献できる存在にしていく授業が教育だと思ってきたわけです。

―確かに、そこには障害児たちの居場所がありませんね。

浅野 それには教育の定義を変えなくてはならない。教育とは、その子が持っている能力を最大限に引き出す作業だと。

 後知恵なのですけれど、エデュケーションの語源は「引き出す」ってことなのです。重度の障害児の生きる能力はすごく低い。だけど表面に出ていない能力を引き出すのが教育である。そして、引き出された能力を活かして生きることが、その人が生きるということなのですね。

 言葉で整理したのはあとですが、そんなことがなんとなく直観的にわかっていました。障害福祉課長として給料をもらっている自分の仕事は一体何だ。かわいそうな子どもたちに何かやってあげることではない。その子たちの存在をひとつの起点にして社会を変えることだ。こんなに生きる力が小さい子どもたちが、生きているという実感をもって過ごせる社会なら、それ以上の能力を持っている人たちには、当然住みやすい社会だ、ということを考えた。

 そうすると、この仕事はおもしろい。やりがいがある。完全にのめり込んで、私の職業生活で今までこんなに燃えた期間はなかった。本省の障害福祉課長をやったのは、たった1 年9か月ですよ。だけれどこんな幸せな日々はなかった。今の仕事は、まだそこまでいっていないですね。


子どもも先生も
障害児に学ぼう

―知事がおっしゃる人間の尊厳。これは当然すべての教育にあてはまります。教育改革が進められる中、浅野知事がこれからの教育に望むのはどんなことでしょう。

浅野 障害児を知ってほしいですね、子どもたちも先生たちも。

 北海道庁の福祉課長時代に全道特殊教育研究大会で挨拶をしました。本当に若気の至りで、「みなさん、ご自分たちの教育のことを特殊教育と呼んでいるのですか? 一般の感覚でいうと、特殊教育という言葉は差別用語ではないですか。みなさんはそのことに何も感じないのですか」としゃべったのです。

 もとになる「スペシャル・エデュケーション」を「特殊教育」と訳した概念の中には、まさに「隔離しました」という方法論が入っているのですね。養護学校、盲学校、聾学校、肢体不自由児養護学校。ひとつの受け皿としてはいいのですが、みんなそこに持っていこうとしたわけです。親御さんが「普通校に行かせたい」と言うと、それはわがままだと言う。学校のほうも、人手がない、バリアフリ ーになっていないと。

 しかし、ぜひ先生がたに認識していただきたいのは、子どもたちにとっても大人にとっても、障害児の存在を知ることはものすごい財産なのです。

 先日、画家のはたよしこさんというかたとお話しする機会がありました。はたさんは知的障害を持っている人に絵を教えているのですが、障害者とのかかわりには「わー、すごい」という驚きがあると言います。知的障害者はそれまでの人生で、自分を表現することをずっと抑圧されてきた。その抑えられてきたものが、絵を描くことを通して一気に爆発する。楽しくて、素晴らしい絵を描く。それに芸術家であるはたさんも「どこにこんな素晴らしい才能を持っていたのだろう」とびっくりさせられる。

 ともすれば、「障害を克服してこんな絵が描けます、偉いですね」という視点でとらえられがちだけれど、そうではないのですね。

 宮城県にはベリー・スペシャル・アーツという催しがあります。「特殊芸術祭」ではないですよ。「とっておきの芸術祭」。その開会式のとき、音楽が流れてくると、前列にいたダウン症の子などが、すごく楽しそうに踊りだした。これはいいな、私も一緒に踊りたいなと思いながら、気後れして踊れない。いわば私はダンス障害者。彼らは障害を克服して踊っているのではない。そういう場にスッと入っていける能力を持っている。絵だってボンと出てきて、芸術界にもインパクトを与える。

 だから、学校にそんな場面を取り込むことには、計り知れないメリットがあるわけですよね。それをできるだけ活かしていこうと。子どもたちが一緒に学ぶのが一番いいのですが、いろいろな方法がある。

―宮城県では、すでに具体的な施策として実行されているのでしょうか。

浅野 ささやかな出発ですが、2年前から、極めて重い障害を持ったお子さんを普通校に 受け入れるモデル事業を始めました。

 授業は別教室ですが、ホームルームや給食は一緒。まだモデル段階ですが、障害児はもちろんのこと、いわゆる健常児であるクラスメートの子どもたちにもいいインパクトを与えています。今後も宮城県の教育の中にそんな場面を増やしていこうと考えています。

 こういうことも考えなくてはいけない。

 普通校が100校あるとすると、養護学校はせいぜい10校。当然ながら養護学校に行く子は通学距離が延びます。何かしらハンディのある子がバスに乗って30分、1時間。おまけに、放課後や土日、家の近所に同級生がいない。それはおかしいと思いませんか。

 今年度から研究という段階なのですが、普通校に養護学校の分校を作るという方向で検討する。そうすれば通学距離も短くなるし、 同じ校門をくぐることで双方に良い影響があ る。

 それから、同じ教育を受けさせるときに、障害児の親のほうが負担が大きいわけです。たとえば医療行為が必要な子が普通校に通うとなると、学校に医療従事者はいないから、親がついてくる。学校にもそれが当然という見方がありますが、本当に当然でしょうか。いや、当然ではないという考えに立って、こういうケースには看護婦さんをつける要医療児童通学支援事業を3年前から制度化して、今では数十人規模になっている。ささやかではないぐらい予算を使っていますが、私としてはそこに思想を込めたつもりです。

 私は、教育の真髄は障害児教育にある、そこから学んだものを普通教育に活かす、決して逆ではないという感じを持った。そういう方向からも、日本の教育のあり方は変わって いく可能性があるのではないかなと思います。


教育が一番必要なのは
どういう人か

―知事のお話を伺っていると、人が生きる様をお互いに見合うこと、それから人間の尊厳、価値、そういうものを含めた何か基礎.基本をもう一度見直さなくていいのかと思います。この時期にこれだけのことを教えればいい、6・3・3でこれだけ終わればいいという次元の問題ではなく、人として生きていくときの気持ちの中に持ち合わせるものを作った上で初めて、この国がやろうとしている教育改革の中身があるような気がしますね。

浅野 教育が一番必要な人はどういう人ですかという単純な質間に何と答えるか。私は、障害児だと思う。だって今の能力が低いのです。能力の高い子は放っておいても伸びると までは言いませんけれど、そういう部分はあるのですよ。障害児には無理です。だからまさに、その人の能力を引き出すという教育の定義にもかかわってくる。

―しかし一方に、障害児を普通校に行かせたいということを、それはわがままだと言う人がまだたくさんいます。

浅野 わがままだと言う人は障害児を知らないのです。知らないなら、何もできないと思われている障害児がどこまでできるか、知らせればいい。パフォーマンスを積み重ねて、子どもにも先生にも障害児と触れ合う場を増やしていくことです。

―障害児教育だけの問題ではなく、教育全体のためにも知らせる。しかし、手がたりない、金がないという現実があります が……。

浅野 宮城県だってそうですよ。金のない時期だから。私がええかっこして、きれいごとを言っているのだけれど、でもまあ、そこを目指して頑張るか、こういうものだとほどほどで手をうって、あるものを受け入れるか。

 いろいろ技術の問題はあるでしょうけれど、根本的なところで「人間の存在とは何か」を考えるのが教育だとすれば、我田引水になりますが、障害児を知ることが、痴呆症の老人 を知ることが、意外と答えに気づかせてくれるのかもしれません。

―知ること、出会うことで、だれでもそういう感じ方ができますか。

浅野 出会う機会を増やせば、だれでもこうなるかと言えば、なるのですよ。障害児を知ると知らないとでは、個人の生き方はもちろん、教育でもずいぶん違ってくるものがある。決して教育の世界から障害児を排除しないでください、いろんな意味で。


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