月刊公論 KORON 2001年8号から
これからは市民運動への行政参加 地方と都市対立軸で論議展開 堂々「田舎まち」への道 菅野 私たちは農業を基礎にした循環型社会、事業名を「レインボープラン」と言うんですが、まちと村が生ゴミを仲介役にして結びつくまちづくりをすすめています。この事業を通して長井市を「循環」「安らぎ」「環境」という点で一級の地域 社会に変えていこうと思っていますが、以前から知事の主張を新聞などで拝見しておりまして、私たちが得た"地べたからのまちづくり"の視点と随分と重なるところが多いなと思っていました。厚生省の官僚をされて知事になられた浅野さんと、十数年農業に従事してきた一農民の私と、世界が全く違うのにどうしてこんなに考え方が重なるのか―というのがとても不思議に思っていたんです。そして今回、対談という得がたい機会をいただいたものですから、 とても楽しみにしておりました。 浅野 私が全く意識していないうちに、菅野さんが言われた「地べたから築いてきた世界」や「循環型社会」と考え方がつながっていたということがとても不思議でおもしろいですね。 菅野 知事の考えでとてもおもしろいなと思ったのは「あるものさがし」なんです。「ないものさがし」ですと自分の地域を肯定できないという部分がありますよね。それに対し「あるものさがし」というのは自分の地域を肯定していきます。そう考えられたきっかけはなんですか。 浅野 厚生省の障害福祉課長をしたということもつながっているんです。障害者という存在があって、"何かができない"という事で障害者と呼んでいるわけなんですね。例えば歩行障害者や言語障害者、視覚障害者などです。つまり"歩けない、しゃべれない、見えない"という事を指して「障害者」と言っているんですね。 これは言葉の問題だけではなくて、人間観の問題なんです。できない事に対してそれを補おうとすると、非常に寂しいんですね。その対象者にすれば「少し違うんじゃないの」と言いたいんですね。 菅野 はい。 浅野 私は障害を"乗り越えて" や"克服して"という言葉が嫌いなんです。それを逆手にとって言う時に「我々はみんな飛行障害者です」と言うんです。「飛べる人がいますか。いないでしょ」と言うことですね。その時に"飛べない"という障害を克服して何かをしているかというと笑止千万ですよね。我々が生きているという事を固い言葉で残存能力と言いますが、それを駆使して生きているわけで、それこそが"生きている"という事なんですよね。 菅野 そうですね。 浅野 私は障害福祉の仕事の中でそのことを自覚し、主張してやってきたわけなんです。「ないものねだり」と言いたいところだけれど、知事としては生々しいので「ないものさがし」と言うと、あれもない、これもない、となってしまってこれではあまりにも寂しいし、生産性もない。吉幾三の「おら東京さ行くだ」ではないですが、信号もない、電気もないなどと歌う中で、最後に彼が気が付いたのは、我々には自然があるじゃないかという事なんです。まさに「あるものさがし」で勝負をしているんですね。 もうひとつは「あるもの」というのが、ただ単に存在するものというのではなくて「個性」という意味なんですね。つまり他との違いなんです。優れているかどうか、というのとはまた別で、私たちは「スペシャル」と言っているんですが、それは「とっておきのもの・かけがえのないもの」という意味です。これを見つける事がこの地域にとっての、まさに誇りにつながると思っているんです。 地域自立阻害する補助金 菅野 先日、水俣に行く機会があったんですが、そこでも「あるものさがし」をしておられました。そして驚いた事に彼らは「ここには水俣病がある」とおっしゃったんです。 浅野 それは衝撃的ですね。 菅野 彼らは「自分たちが等しく傷を負った水俣病があるからこそ、水俣を世界に冠たる環境都市にしていく義務と責任がある」と言うわけなんです。まさにマイナスをプラスに転じているんですね。 浅野 そうですね。 菅野 知事はどこかで、農業というものを大切にしていかなくてはならないという事を書いておられたように思うんですが、それは「あるものさがし」と関係するんでしょうか。 浅野 そうですね。あるものさがしと対極にあるのが「東京はいいな」というメンタリティなんです。あこがれの対象としての東京というのがあって、そこに行くだけじゃなく、自分たちの住んでいる地域も東京への似通い具合によって価値の連続性をつくる、というメンタリティがあるんですね。たとえば宮城県だと擬似東京としての仙台という都市があります。「わがまちは東京になる事は無理でもせめて仙台のようになりたい」と意識しているうちは、永遠に勝てないゲームなんですね。 菅野 そうですね。 浅野 勝てないからあきらめるというよりも、生きているという事の誇りにつながらないんです。だからまずそのメンタリティを無くすという事ですね。 それと先ほどの菅野さんのお話の中でキーワード的に出てきた"循環"というのはとてもおもしろいなと思ったんです。と言うのは都市にはその意味での循環というのはないんですね。"循環"というと、かろうじて流入があって流出があるというぐらいです。菅野さんが言われる循環というのはいわゆる自己完結性のようなものでしょ。それはとても美しいと思いました。「美的感覚」ですね。目で見て美しいというのもあるんですが「論理的な美しさ」など広い意味での美しさというものがある。それに対して誇りというものを感じるんです。しかし循環というのは直感的に言って、ものすごく美しいんですね。論理性を持っていて美しい。都市のように単に流入し流出するというのは美しくないんですね。 菅野 品格ある地域社会をつくりたいと思います。山形は圧倒的に農地が多いんですけれども、農作物はどんどんと外に出荷され、私たちのまちの台所で消費されているものは、かなりの割合で地域の外からやってきているものなんですね。同じものが作られているにもかかわらず、地域社会の食料は地域農業でつくられたものではなく、言ってみれば全世界から集められたものに依存しています。田舎の豊かさが活かされてません。その事が発展であり進歩であるというふうに考えてきたところがあったと思うんですね。都会ではなくもっと足もとを見つめなければと思いますよね。そのあたりはいかがでしょう。 浅野 地域の発展のためにはいろいろなものが必要でしょ。事業だったり道路だったりするんですが、それは国にお願いをして持ってくるものとされているんですね。私たち知事というのは悪く言えばメッセンジャーボーイでして、国から一生懸命に補助金なり事業を引っ張ってくるのが良い知事という事になるんです(笑い)。「あなたはパイプの役割を果たしなさい」というわけなんですね。 菅野 選挙でも随分「パイプ、パイプ」という声が飛びかいますよね。 浅野 これは中央のお金の流れなどを前提としているんですけれども、まさにそういう事はそれぞれの地域の自立を阻害している要因のひとつなんですね。
市民が活動の主人公に 菅野 広く一般的に「地域づくりは行政への市民参加から」が通例と言われていますが、私たちの地域ではそうではなしに「市民運動への行政参加」という形で進展したんです。 浅野 そうなんですか。 菅野 「住民運動」に行政が参加するんです。 浅野 それはどういった形なんですか。 菅野 まず私たちはこんなまちづくりをしたいという構想があったんです。そして市民から商工会議所や市立病院・PTA・清掃事業所・農協…と呼びかけていきながら、広いネットワークをそのプランのもとに形成、行政が参加しやすい環境を市民が率先してつくったんです。そこに委員として行政に参加していただいた―が始まりなんです。 浅野 その時、行政はすんなりと乗ってきましたか。市役所の職員にも話をされたんですよね。 菅野 まず市長に話に行きました。 浅野 ああなるほど、市長のところにいかれたんですか。 菅野 はい、広いネットワークの名簿をもって。 浅野 その市長もご立派ですね。やはり普通だと「余計な口出しをして・・・」となるんですがね。 菅野 そうかも知れません。市民のまずネットワークができて、当時の行政のトツプの方々が委員として参加する―という形で市民と行政職員とのネットワークというものができました。それを称して「市民運動への行政参加」と呼んでいます。 浅野 なるほどそうだったんですか・・・。 菅野 循環や環境の問題というのは、市民が地域の主人公になって活動していくということを基礎にしないと、なかなかスムーズにいかないと思うんです。その点で今までのようでない市民と行政の関係が求められていると思います。 浅野 直接メシのタネになるとは思えないような事をやろうとした、そもそもの動機は何だったんですか。危機感からですか。 菅野 生まれ育った地域が好きだからです。 浅野 それはやはり菅野さんのような仕掛け人がいて、うまく乗せていくという事もあるんでしょうけれども、登場人物の特色というのはありますか。 菅野 地域の特色はあると思いますね。長井という所は、米沢という政治都市に対する小さな商業都市として歴史を刻んできたんです。ちょうどかつての大阪にとっての堺市のような感じです。独立不羈の精神というのが今もあって、苦境にありながらも自分たちのまちは自分たちでつくってきた―そういう精神風土があるように思います。 けれど地域というよりこういう時代が始まっているということじゃないでしょうか。浅野さんは宮城県知事として地方という事を特に意識されて感じられたというようなエピソードはありますか。 地方斬り捨てに体張る 浅野 飛躍かもしれませんが、「道路特定財源」の話があったでしょ。いま、小泉首相は何をしても人気が上がる人物なので、これに反論するのはとても勇気がいる事なんです(笑い)。しかし私はあえて反対しているんです。 文脈は地方と都市という中で「集めた6兆円は全部道路に使いましょうというのは、予算の硬直化に結び付く。そういう時代ではなくて、自動車ユーザーによるガソリンの購入などで稼がれる税金を、もっと他のものにも使いましょう」という事を小泉首相は提言しているんです。それは"道路族"のような族議員がいる中で、小気味が良い反論というか挑戦だったんです。 私は地方と都市という観点で反論をしていますが、記者会見で「それは地方のエゴだ」と言われました。そういう言い方をされるとムッとするので否定はしたんですが、よく考えると「それはもういいんだ」と思えました。一方で言っている事が都市エゴだからです。 というのは例えば、お食事会で1万円払うとします。都会の人は食べるのが早いので皿が配られるのが早く、腹八分目になっているのに、地方の人たちはまだ半分の量しか食べていない。都会の人は8千円分食べたので満足して「余った2千円でミュージカルを観に行きましょう」と言っているのと似ていませんかと言ったんです。つまり都市部は基礎的な高速道路の整備は終了済みでしょ。これから地方だという時に、あろうことか交通量の少ないところに高遠道路を造るのは無駄だとおっしゃっているんですね。これは都会人のエゴなんです。 このようなやりとりをしているんですが、これに限らず政策の対立軸として「右だ左だ」というのは薄くなってきて、ひょっとして、「都市と地方」という対立軸があるのかもしれない。そして地方分権と中央集権という対立もあるかもしれない。そういう意味で今「地方の復権」というか、下手をすると「地方の切り捨て」という事に対して体を張ってでも食い止めなければならないんです。知事なんですから。 菅野 それができるのは浅野知事しかいないと思いますね。今日はありがとうございました |
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