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朝日新聞 2004年9月3日
《三者三論

義務教育費の国庫負担
小中学校の先生の給料の半分は国が補助している。
教育のコストはどこが担えばいいのか?
【聞き手・菅沼栄一郎】

《 キーワード 》義務教育費国庫負担制度
都道府県が負担している公立小中学校の教職員給与の半分を国が補助する仕組み。約70万人が対象で、予算額は04年度で2.5兆円。義務教育費の扱いを含めた補助金全体の具体案づくりを政府から要請された全国知事会など地方6団体は、8月中旬に補助金廃止案をまとめた。廃止案には義務教育費国庫負担金の全廃を盛り込み、当面は06年度までに、中学校の職員分の8500億円を廃止する
としている。【朝日新聞記事】

 

 


 

 

地方の財源なら政策に幅


 「義務教育は国の責任」というのはその通りだが、財源を半分負担することと「責任」とは、直援関係はない。

  負担金とは別の方法で、国の責任は十分に果たされていると思う。教科書を決定したり、学習指導要領でこれだけのことを教えなさいと定めたり、「6・3制」を堅持したり。文部科学省は「6・3制」の区分を市町村で自由に定めてもいいという案を打ち出したが、それは「禁じ手」でしょう。教育の水準を定めるのが国の仕事なのだから。

 一方で、教育の中でも行政サービスにかかわる部分は、市町村の仕事(自治事務)になる。子供たちは地域の学校に行き、地域で育つ。福祉と同じ地域密着型だ。高速道路をつくったり、通貨をコントロールしたりする国の仕事とは、まったく性格が異なる。 現場で教育にあたる教師の給与の半額を、なぜ国がもたなければならないのか、その理屈がわからない。

  国庫負担がないと、離島や過疎地などで十分な教育が受けられなくなる、という意見が知事会の議論でも出た。これは義務教育だけでなく、補助金、負担金全般に通じる本質論である。負担金を廃止して税源移譲をした時に、地方ごとに生ずるデコボコ(偏在)を、どう調整していくか。地方交付税をどう改革するか、税源のバランスをできるだけ平等にするよう税制をどう見直すか、の議論は待ったなしでやらなければならない。

  義務教育で言えば、国が定めた水準を確保することまで、これまでのように国に頼っていていいのか。住民自らやるのが民主主義の常道ではないのか。

  財政は国も地方も楽ではない。国庫負担の不足分を、県が自腹を切って補ってきた部分も多い。ポイントは、負担金が廃止され、一般財源化されれば、知事の自由裁量になるという点だろう。もちろん教育水準を下げるのも知事の勝手と言えなくもない。だが考えみてほしい。この情報公開の時代に、教育水準を切り下げたら、県民は黙っているだろうか。.宮城県は障害児教育の充実のため、県独自の負担も付加している。一般財源化されれば、政策の幅が広がるし、子育てや福祉も独自の発想が出てくるだろう。

  教育をどうするかといった課題を住民に近いところに取り戻すことこそ、国庫負担金の廃止をはじめとする補助金・負担金の廃止や、「地方財政自立改革」の狙いなのだ。

  私は義務教育費負担金廃止の急先鋒ではない。この負担金は補助金・負担金全体の中で地方を縛っている度合いからすれば、「罪深くない」方だ。廃止の順番からいえば「9番バッター」だと言ってきた。ただ、廃止すべきではないという意見には断固反対する。

  文科省は今年度から「総額裁量制」を導入した。国は負担金の総額だけを決め、費目ごとの裁量は自治体に任せるものだが、私たちは補助金の「使い勝手」をよくする運動 をしているのではない。

  05,06年度は公立中学校の教職員給与の8500億円分の廃止を地方から提案したことに「数字合わせ」との批判がある。「子供のケンカ」並みに言い返すなら、では、今年度と昨年度に退職金と共済費長期給付のそれぞれ2千億円余を廃止したのはどんな理由からだったのか、と聞きたい。いずれにせよ改革の全期間を通じれば全廃するということだ。

  永田町や霞が関との戦い、 議論が本格化し、住民との教育論も大いに展開されるが、義務教育は、水準の確保を誰に委ねるのか、という視点を忘れずに臨みたい。

●浅野史郎とのインタビュー記事の部分を掲載しました。
●この記事は朝日
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