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2005年12月2
朝日新聞
 執筆原稿から


特権と陳腐化に抗して
知事を辞めたこと 好きな仕事始める時

 知事の仕事はやりがいがあった。12年前、ゼネコン汚職で現職知事が逮捕された後の出直し知事選で、私が掲げたたった一つの公約は「宮城県に誇りを取り戻そう」だったことを思い出す。就任直後、食糧費の不適正支出、カラ出張といった不祥事を組織自らの手で解明することを決断した。県庁が恥辱まみれになりつつ、裏金全額を管理職全員で返済した。誇りは取り戻せた。「最低限のやるべきことはやった」との自負はある。

 宿題残しても原則守る

 また、知事就任前の厚生省役人時代には障害者の地域生活援助が進まないことにいらだっていたが、宮城県知事として「みやぎ知的障害者施設解体宣言」を発した時には、これで日本の障害者福祉の方向が確実に変わっていくことを実感することができた。

 だが、日常業務としては官僚組織が作り上げた施策を追認していく作業が大部分と感じて、空しさに近い想いもあった。

 一方、県警の犯罪捜査報償費の不適正支出問題は、確実に手順を踏み、理詰めで県警に迫った自負があっただけに、県警に不適正支出について自ら明らかにさせるという結果を出す前に任期切れを迎えたのは、不本意だった。知事が支出は不適正と確信していても、県警の不誠実な対応は変わらない。不条理、理不尽という想いが残った。

 三期での引退は、三選の知事選挙当日に決めていた。公表しなかったのは、「この知事はあと4年でおしまい」というレームダック状態になるのを、回避したかったからである。四選出馬せずは、私にとって、基本的な原則であった。県警の不適正支出問題の解明という宿題が残っても、それを理由にもう一期やるのは本末転倒になる。

 「知事は辞めるのが大変。俺は三期で辞め損なって恥ずかしい」。宮城県知事を五期二十年務めた山本壮一郎さんはこう話していた。私が知事に初当選した3日後、ご挨拶におもむいたときのことである。この言葉は私の意識に刷り込まれ、任期に関する「原体験」となった。

 「権力は、長くなれば腐敗するとは言わないが、陳腐化する」。四選不出馬を表明した時、私はこう発言した。知事として年中行事的な職務を12回繰り返せば、新鮮味と緊張感が薄れる。新しい発想と行動様式が発揮される可能性は少なくなる。県庁職員の側にも「この件について一番詳しいのは浅野知事」という具合に、むずかしい問題は知事に頼りきりの構図ができあがりかねない。県民の間に「知事は浅野であたりまえ」という想いが広がってくる。

 知事以外できない体に

 その一方で、多選を助長する要因は多数ある。「知事さん、知事さん」とちやほやされ、どこに行っても最高の待遇を受ける。空港ではVIPルームをあてがわれ、コンサートでは一番いい席に案内される。国内以上に、外国では文字通りの賓客待遇を受ける。芸能、スポーツ関係の有名人に簡単に会えるのも、知事の特権であろう。私の場合も癖になりそうであった。

 知事として長く経験を積めば、仕事上の苦労は少なくなる。選挙はますます楽になる。基盤は万全で、知名度は絶対だし、多選批判の声など簡単にはね返せる。「四選出れば、楽勝だったのに」の声を聞いたが、「それだから辞められなくなるのですよ」の言葉を何度のみ込んだことか。

 知事をこれ以上続けたら、特権の魅力に抗しがたい精神構造になってしまう。四期やったら、五期もやろうと必ずなるだろうとの想いもあった。「このままでは、知事以外のことはできない身体になってしまう」という恐怖感とともに、好きなこと、得意なことをやるなら今しかないという切迫感があった。57歳という年齢もある。

 ライフワークとしての障害者福祉は、知事の仕事の中では、数十分の一の時間と情熱しか投入できなかった。仕事を通じての感動は、対象に直接あたり、一定期間集中して解決に心血を注ぐといったやり方からしか得られない。障害者福祉に限らないのだが、知事は、こういう仕事ぶりでやるのは無理である。

 知事以外の仕事として、やりたいことを年齢的にも可能な間に、始めること。「三期十二年で終える」を「改革派知事」として有終の美を飾るべくズバッと実行すること。知事を辞めたのは、複雑怪奇とは程遠い、こんな単純な理由からである。

 



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