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2008年6月6日
自治日報

《自治》執筆原稿から

第二期分権改革に向けて

 第二期の地方分権改革が始まろうとしている。まずは、前回の総括が必要である。第1期の分権改革は、「三兆円の税源移譲」と地方交付税の見直しという、それなりの成果をあげたとの見方もあるが、とんでもない話である。

  三位一体改革の目的は、地方自治体が財政面で裁量権を広げることであったが、そのためには、多くの補助金、負担金の廃止を勝ち取ることが根幹である。それがほとんどできなかった。地方交付税の見直しは、財務省にとっての勝利であり、地方に残ったものは、五兆円規模の削減だけではなかったか。地方財政は、さらに疲弊し、財政的な裁量の幅は、実質的には、むしろ狭まったと見るしかない。

 なぜ、このようなまやかしの改革になってしまったのか。原因の一つは、用語の使い方に帰せられる。そもそも、「三位一体改革」では、目的がわからない。全国知事会で、私は「地方財政自立改革」の用語を使うべきだと主張したが、市民権を得るまではいかなかった。財務省は、三位一体改革を財政再建のためのものと「曲解」した。

 「補助金の廃止」の用語が、「補助金の削減」に取って代わられた。新聞で、その言葉が飛び交うたびに、「違う、削減ではない、廃止だ」と記者諸君に注意したが、案の定、「政府案」は、負担率の引き下げなど、補助金・負担金の削減のオンパレードであった。

 戦術面では、地方側のまとまりがいまひとつであった。全国知事会での議論においても、たとえば、補助金の廃止は「補助金の使い勝手をよくする運動」と理解して、補助金制度の最大の問題が縦割りの弊害であるとの理解に達していない知事も若干存在した。補助金は、補助目的のための支出にのみあてられる特定財源であり、その廃止は一般財源化を意味する。道路特定財源の一般財源化の議論がもっと早く出ていれば、補助金廃止の必然性が理解されやすかったかもしれない。

 それでも、知事会は三位一体改革の実現という方向性では、考え方も行動も一致していた。問題は、地方議会であり、動きが鈍かった。地方議会の議長は全部で約三千三百人。まとまりを期待するのは無理としても、数の力は政治的な圧力であり、その潜在力を十分に使えなかったのが残念であった。

 根本的には、首相の指導力が、最後の場面で発揮されなかったことである。当時の小泉首相は、「官から民へ」の郵政改革と並んで、「国から地方へ」の三位一体改革に同じような情熱を持っていると期待されたが、期待は裏切られた。最後の場面では、霞ヶ関の官僚の抵抗で頓挫したかのように見えるが、首相として、官僚の上に立つ各省大臣の首を切ってでも実現する指導力を発揮し得なかったことが、第一期の分権改革たる三位一体改革が竜頭蛇尾に終わった大きな要因である。

 このように分析してくれば、第2期改革はどのように進められるべきか、方向は明らかである。上記で反省されるべきと述べたことの反対をやればいい。それに加えて何点か。

 地方分権の課題が論じられるときに、住民の存在がすっぽり抜けていないか。地方分権は、ほんものの民主主義を根づかせるための必須条件と考える私からすると、地方分権は、納税者であり、有権者である住民のためのものである。 自治体において、特定の施策が、住民の満足いくような形で実施されるかどうかが、国からの補助金で保障される仕組みと、住民から自治体への圧力にかかっている仕組みと、どちらが民主主義を育てるゆえんであるか。住民の要望は、政治的には、地方議会を通じて実現されるものであるから、補助金なしの状況では、地方議会の出番は、格段に大きくなる。地方分権の意義をそのようにとらえる視点がない限り、住民が地方分権の課題に無関心であり、冷ややかであることを転回させる契機は生まれない。

  つまりは、地方分権の課題を、住民の切実な願いとして、政治的な意味づけがなされない限り、首相のリーダーシップは発揮されるはずがない。今までどおり、選挙で選ばれているわけでもない霞が関官僚の思うがままである。その意味では、政治の出番である。それこそが、第二期分権改革の成否をわけることになろう。


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