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2012年7月20日
自治日報
《自治

執筆原稿から

地域主権の意義の誤解

 大学で「地方自治論」を講じている。授業を通じて、地域主権について誤解している学生が多いことに気がついた。「現在の地方自治体の運営は、中央集権の仕組みの中でなされている。地域主権改革は、これを一気に転換するもの」といった誤解である。

 思い立って、「地方分権度」という説明の仕方を加えてみた。「自治体のことは自治体で決める」という地方自治体の本来の姿が達成されている状態を「分権度100」とする。戦前でも、完全に中央集権が徹底していたわけではないから、「分権度30」ぐらい。戦後の改革で、県知事が官選から民選になるなど、大きな改革が行われた段階で、「分権度50」へ。2000年の「地方分権一括法」で機関委任事務が廃止され、「分権度70」に達した。小泉政権時代の「三位一体改革」が中途半端に終わり、分権度70から80,90へとする好機を失った。50とか70とかの数字は、私の勝手な言い方ではあるが、「分権度」という概念を使っての説明は、学生には、わかりやすかったようである。

  6月4日の朝日新聞社説は「ゆっくり、すこしずつ、分権改革の歯車が回り始めている」との書き出しで、「地域主権改革」について論じている。こういう言い方だと、「改革とは、ゴールを目指して、一歩一歩、実績を積み上げていくプロセスである」というイメージが持てる。「分権度」の概念を使えば、「これで、分権度70から71に進んだ」という言い方になるのだろう。

 この社説では、国が決める公の施設の設置基準の一部を、自治体が独自に条例で決めてよいという法改正がなされたことを紹介している。たとえば、一部の市に限ってではあるが、認可保育所の部屋の基準を独自に決められるようになる。そういった方向での改正は評価しつつ、「逆に言えば、こんな細部にまで国が基準をつくっていたことに驚く」と、社説は結んでいる。実際のところ、こんな小さな改革の積み重ねこそが、地方分権改革の実態である。オセロゲームで、白駒がいっぺんに黒駒に変わるような劇的なものではない。

 学生のもう一つの誤解は、地方分権と「東京一極集中の是正」の取り違えである。「地方分権が進むと、田舎の地域も発展する」と思い込んでいる。「地方分権により、地域間格差がなくなる」のではなく、ある意味では、その逆であることを、学生に説明しなければならない。たとえば、上記の保育所の面積基準の緩和により、保育所での処遇環境が隣の市と比べて劣悪になるという「格差」が生じる可能性がある。自分の自治体の「劣悪基準」が気に入らない住民は、国に対してではなく、身近な自治体の首長や議員に注文をつけることになる。これこそ民主主義の実践であり、地方分権の「効果」としてもたらされることも、知ってもらわなければならない。  地域主権改革を自治体住民の側から求める声は、ついぞ聞かれない。「地域主権」の言葉は、なにやら魅力的には聞こえるから、賛成ではある。しかし、積極的に自分たちも改革運動に関わろうという気にはならない。その原因は、中身がわからないから。地域主権改革の意義と必要性は、我々「プロ」にとっては常識であるが、地域住民にとっては、決して常識ではないことに気がつくべきである。

 「地域主権」の用語について付言したい。「地方分権の実現」より「地域主権の確立」のほうが、かっこいい。地方側の自負と覚悟が読み取れる。しかし、そういった「美しい言葉」(耳に快いが、中身の乏しい言葉のこと)が、一般の国民を惑わすことのほうを恐れる。「地域主権」という素晴らしいことが、いつかある日、突然もたらされるというイメージを持たれたままでは、地域住民はおとなしい見物人の役割から飛び出そうという気にならない。一方、「地方分権」の言葉からは、「一歩一歩地道に」ということも含めた運動論としての意味合いが明確に伝わってくる。これなら、地域住民も運動に関わろうという気持ちになれる。

 「用語の選択も大事」。これが、この稿のもう一つの結論である。  


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